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1.宮川はお伊勢さんの川
2.水源は日本一の多雨地帯の大台ケ原
3.氾濫する神の川
4.繰り返される洪水被害と治水工事
5.利水の苦難
6.伊勢平野の悲願
7.宮川総合開発事業
8.国営宮川用水土地改良事業
9.国営造成土地改良施設整備事業
10.国営造成土地改良施設整備事業
11.管理技術の移転
12.おわりに

icon 1.宮川はお伊勢さんの川



 伊勢神宮を訪れた人々が禊(みそぎ)をしてケガレ を祓(はら)う習わしであった宮川。名前の由来は 「豊受宮(とようけのみや)(伊勢神宮の外宮)の禊 川」が縮まって「宮川」と呼ばれるようになったとい われています。平成3年、12年、14年、15年には日 本一の清流に選ばれ、お伊勢さんの川にふさわしい清 冽(せいれつ)な河川です。しかし、この美しい川は 河床が低く急流であるという特異な地形のために、こ の地域の人々は長年に亘って宮川の水を利用すること ができず、度重なる干ばつに悩まされてきたばかりか、周期的に襲う大水とも戦わざるを得ないという地形的矛盾を背負ってきました。


icon 2.水源は日本一の多雨地帯の大台ケ原



 宮川は、大台ケ原山系の一つ日出ケ岳(ひのでがたけ) の尾根より発し、急崖を1,000m余り直下して堂倉、隠、 光、七ツ釜、ニコニコ、千寿の滝を巡って男性的な渓谷 美を見せる大河です。「月の35日は雨が降る」といわれる 大台ケ原一帯は、年間降雨量4,500㎜を超える日本一の 多雨地帯として知られています。大正12年(1912)9月 の台風時に、一日の降雨量として1,011㎜の記録を残し ていますが、この数字は世界第3位の記録ということに なっています。ちなみに、2004年9月28日、宮川地方に 大災害を与えた台風21号は、午後8時頃から翌29日午後 9時頃にかけて820㎜の総雨量を記録しています。いかに 豪雨であったかその雨量が物語っています。

 大台ケ原に降った雨は、海抜1,655mの三津河落山(さん ずこうちやま)が分水嶺となり、西北の斜面に降った雨は、 吉野川を経て紀ノ川となり、南斜面に降った雨は、熊野川 へ、東斜面は大杉谷を経て宮川となります。三津河落の名 前の由来はここから来ているといわれています。まさに奈 良県、和歌山県、三重県の三県の大地を潤す神聖な大水源 ですが、大水が発生すると下流に大蛇を放ったような大洪 水を引き起こす「大台のきちがい水」として古くから表現 され畏れられてきました。


icon 3.氾濫する神の川



 もともとの宮川下流域は下図のように本流が いくつもの支流に分かれ、伊勢平野を縦横に走 っていました。ここに大台ケ原の雨水がどっと 流れ込み、下流一帯で洪水が起きると、清き流 れは濁流となり、支流から溢れ出て、あたり一 面を池沼のごとく変貌させていました。「神宮雑 事記(じんぐうざつじき)」によれば、長歴4年 (1040)7月の大氾濫では、宮司が船に乗って外 宮に着いたと、あたかも陸地がなくなってしまっ たかのように記されています。とりわけ下流域で の氾濫は、凄まじいものがあり度々先人達を恐怖に陥れていました。


icon 4.繰り返される洪水被害と治水工事



 宮川が洪水によって災禍を被った流域は、特に下流の地域に集中しています。中流から上流にかけては、川底が低いことが逆に幸いして洪水の被害をまともに受けないで済みました。昔の宮川堤が現在のような堅固なものでないことはいうまでもありません。洪水のあるごとに氾濫し堤防が決壊しました。
 最初に洪水の被害状況が記録に残されたのは、大同4年(809)8月26日『伊斎旧蹟間書』で、豪風雨により洪水が発生し、堤が潰れたという旨が記されています。これ以後、周期的に洪水が発生し、下流一帯を襲ったという記録が残されています。
 初めて人工の堤が築かれたのは1100年代中頃、たまたま勅使として伊勢神宮に出向いた平相国(へいしょうこく)清盛がこの地の苦しみを知り、宮川堤を築いて人心の安定を図ったといわれています。また、寛永元年(1624)には、時の山田奉行中左衛門が幕府に訴えて修理費を請い、堤防の大工事を行いました。ところが、この工事によって出来た堤も、天保元年(1644)の大洪水によって流されてしまいます。その後、正保3年(1646)には以前にも増した頑丈な堤防を築きますが、慶安3年(1650)の洪水で被害を受け、さらに、貞亨2年(1685)に霞堤のような棒状の堤を築造して万全を期しますが、世にいう寛保の大洪水のため、無情にも堤300間を残すだけという壊滅的な被害を受けます。当時の未熟な土木工事では、この荒れ狂う大河に対処する術を持っていませんでした。寛保4年(1744)にも改修しますが、いずれも堤は決壊し、甚大な被害を被っています。

 明治時代に入ると、2年、15年と洪水が発生し、18年に昼田村(現玉城町)を襲った豪雨は、全村を濁流で呑み込んでしまうという、まさに地獄絵のような有様で壊滅的な被害を受けました。この昼田地方は川底が高いため氾濫の被害をまともに受けました。この後、明治22年の台風で小俣村、御薗村長屋等の堤防が壊滅、明治39年の台風では、宮川に架かった宮川橋(伊勢市)、舟木橋(大台町)、馬瀬橋(伊勢市)をはじめ沼木村の各橋梁のほとんどが流失しています。明治年間における宮川洪水の最大の惨事でした。大正時代は、6年、7年に、さらに昭和13年から22年までの10年間は、毎年のように大洪水をもたらしています。昭和28年の台風13号は三重県だけでも600億円の被害をもたらせました。
 まさに宮川の水害との闘いは、この地方の歴史であり 運命でもありました。


icon 5.利水の苦難



 治水とともに先人達を悩ませてきたのが、宮川の利 水です。宮川流域は紀伊山脈や、伊勢平野周辺に連なる山系などの影響によって、高低、広狭(こうきょう)、緩急(かんきゅう)の差が激しい複雑な地形をしています。これにより河床が陸地よりも高い地域と低い地域が混在しているため、地域の耕地のほとんどは自然導入できない状態で、下流域5,766haの耕地のすべては、佐奈川・外城田川(ときたがわ)の小河川やため池、地下水の汲み上げなどに頼るしかない状態でした。特に、宮川下流左岸地区は、耕地に恵まれながらも用水源不足から畑作に限定された農業が営まれてきました。

 昭和の11年から19年に至っては干ばつが度重なり、その被害は深刻な状況でした。昭和19年の不足水量は調査の結果7,378,560m3にも達しました。この深刻な水不足に、それぞれの農家はハネツルベで地下水を汲み上げて対処していました。その数900を数えています。また、土地の高いところは小規模な揚水機を設置して汲み上げていました。実に揚水機の数は192箇所にも及んでいます。この過酷な日照りで困窮していた地方に、昭和19年12月の東南海、翌20年1月の東海と2度にわたる巨大地震が襲いました。この地震に伴う地盤沈下が塩害を発生させるという二重の天の災害に遭遇しました。まさに農民の困窮は限界に達していました。近くを流れる宮川の豊富な水をただ眺めているしか術のない農民達の心情は如何ほどのことであったか推察できます。この宮川の水を用水として利用しようという声が高まったのも当然のことであったといえます。

三重県最初の揚水機

 度会郡豊浜村(現在の伊勢市西豊浜町)では、毎年2月6日を「灌水記念日」と定め、この日は、村の人が仕事を休み「小川徳三郎翁」の遺徳をたたえるという、わが国でもめずらしい風習が続けられています。
小川徳三郎翁は、鈴鹿の白子町からこの地方に移り住んだ人物で、当時としては誰も考えたことのない、大規模な機械による揚水を 「尾崎行雄の筆による灌水碑」企画し、地下水によるかんがいを実現させ見事な成果を上げます。この驚嘆すべき現実をみた西豊浜地区の農民が、早速小川氏に指導を懇願して、落合地区に長さ50間、幅9尺の、尺八堀という大井戸を掘り、その傍らで石炭を焚き、蒸気機関を動かして水を揚水し、水田を満たしました。それは、明治39年5月のことで、蒸気機関によるかんがい施設は、わが国最初のものになり、その記録は貴重な資料として今も農林水産省に保存されているといいます。
現在、公民館の前庭に憲政の神様といわれた尾崎行雄の筆による灌漑碑が立てられています。


icon 6.伊勢平野の悲願



 東南海、東海地震という2度に亘る大地震によって、農地の地盤沈下は伊勢平野の広範囲に及び、地震に伴う農業用水路などの水利施設は壊滅的な被害を受けました。第二次世界大戦の戦局が厳しくなるにつれ、農民は不安のどん底に落とされていきます。農民や地元有力者の代表は県、国に対し再三にわたる災害対策の陳情を重ねますが、時は終戦間近、国家としての存亡にかかる重大局面を前に、そうそう地方の農村の陳情が叶うわけがありません。そして終戦を迎え、占領政策の動向を見守りながらも、数万を超える被災農家を救うための陳情は片時も休むことなく続けられました。
 戦後の食糧難の時代を迎え、田畑の整備は急を要します。当然、将来を見据えた水資源の開発が不可欠であることはいうまでもありません。幸い、この地方には豊かな宮川の水が流れています。この大台ケ原の豊富な水源をもつ水量豊かな宮川に目が注がれる事になります。


icon 7.宮川総合開発事業



 県は、昭和25年5月に公布された「国土開発法」の趣旨のもとに、宮川の水量を治水、かんがい、発電など総合的に利用する宮川総合開発事業をまとめます。この計画は以下の効果を目的としていました。

1)治水
 宮川ダムの洪水調整作用により、宮川堰堤地点における計画流量を調整して下流河川の改修費の節減を図るとともに、伊勢市を中心とする数ケ町村の被っていた水害を防ぐ。
2)かんがい
 伊勢市ほか数ケ町村にわたる、5,430haに対するかんがい用水を確保して、かんがい期間中補給水(7,500,800m3)を宮川貯水池から放流し、年平均53,194石の増収を図る。
3)発電
 宮川第一、宮川第二及び長ケの合計最大出力54,800kwの3発電所を建設し、年間2億4,400Kwの発電量を確保する。
4)観光(省略)
5)資源開発(省略)
 この事業により、宮川ダムや発電所が昭和25年着工され、昭和32年に完成することになりました。

 このうち、かんがい事業については、伊勢市他5町1ケ村の水田に対する用水補給と、畑地かんがいを行うため、昭和32年に国営事業で施工することになり、三重県農政史上初の大規模土地改良事業として着工、粟生頭首工と導水路、幹線水路37.7kmが施工され、昭和41年に完成しました。導水路は、複雑な地形を克服するために、ほとんどがトンネルによる工事でその長さは7,200mにも及びます。途中、日本列島を縦断する中央構造線を通過するという、崩壊の危険と戦いながら工事が進められました。
 また、国営付帯県営かんがい排水事業として、既存のため池を調整池として利用しながら、支線水路21路線、延長54.8kmと用水機場2カ所が昭和53年度に完成しました。
 これらにより水害の激減・用水の確保が促進され、宮川流域は県下でも優良な農業地帯となり、伊勢平野は、以前とは見違えるほどの穀倉地帯へと変貌を遂げました。
 伊勢平野をすっかり新しい大地に変貌させた水利資産・宮川用水でありますが、人工的な施設ゆえに老朽化は避けられず、昭和54年から7年間にわたって国営造成土地改良施設整備事業が実施されました。その完了から約10年(国営事業の完了後約40年)が経過し、水路のあちこちが沈下、ひび割れ等を起こして漏水が激しくなってきました。また、早場米の産地化、乾田化や減水深の増大等によって水使用量が多くなるとともに早期化しました。さらに、幼児が開水路に転落する事故が3件も発生していました。
 このため、用水計画を見直すとともに老朽化した水路施設の改修を行うなど新しい時代の農業に即した資産に改良することになり、国営宮川用水第二期事業が平成7年度から平成24年度にかけて行われました。


icon 8.国営宮川用水土地改良事業



1)事業実施の経緯

 宮川にダムを構築し、治水と電力の開発が中心であった宮川総合開発計画に、昭和26年、度会郡田丸町外8ケ村、多気郡相可町他2ケ村及び宇治山田市に至る4,200haへのかんがい用水が組み入れられました。
 これを契機として、宮川用水事業計画の早期実現を目指して、宮川用水改良事業期成同盟会が結成されるとともに、昭和26年から三重県による宮川の利用計画が検討され、その後、農林省において、調査計画地区として採択され、昭和30年から全体実施設計、昭和32年から昭和41年度にかけて本事業が実施されました。

2)事業の概要

 事業期間  昭和32年度~昭和41年度
 受益地域  多気郡大台町、多気町、明和町、度会郡玉城町、小俣町、御薗村、伊勢市
 受益面積  5,766ha

 主要工事 
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事業概要図

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icon 9.国営造成土地改良施設整備事業



1) 事業実施の経緯

 本事業は、国営土地改良事業によって造成した基幹的施設について、緊急に必要な補強工事を行うことによって、施設の機能維持及び安全性の確保を図ることを目的とした事業であり、宮川用水においては、国営宮川用水土地改良事業により造成された基幹的施設である粟生頭首工及び幹線水路の一部が損傷し、施設の維持及び水管理の困難化、施設の安全性の低下等の障害が生じたため、昭和54年から6カ年計画で実施されました。

2) 事業の概要

事業期間  昭和54年度~昭和60年度

主要工事
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事業概要図

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icon 10.国営造成土地改良施設整備事業



 国営宮川用水第二期事業で造成された基幹水利施設は県営、団体営で建設される支線、末端水路に接続され、農業用水は各ほ場に配水されます。これらの支線末端水路を整備する関連事業は31地区が予定されており、平成21年度までの進捗状況は、採択面積ベースで76.5%であり、15地区(県営4地区、団体営11地区)が完了、8地区(県営)が実施中です。関連事業の実施により、今後さらなる水利施設の維持管理手間の軽減、営農時間の短縮、営農規模の拡大が図られる予定です。

関連事業(経営体育成基盤整備事業)による農地利用の集積状況
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出典:三重県資料  実施後の値は、平成21年度実績




icon 11.管理技術の移転



 国営宮川用水第二期農業水利事業で造成された施設の管理主体は、宮川用水土地改良区となります。事業完了後の造成施設の管理を円滑に行うため、事業所職員から改良区職員への施設管理の技術移転を行いました。具体的には、管理マニュアルの作成、水管理システムの操作方法の指導、土地改良区職員との共同作業です。
 近年、土地改良施設の維持管理の軽減や施設の長寿命化が命題とされており、細かで多様な整備提案・要望が出されています。このため、宮川用水第二期農業水利事業所職員自らが直轄施工を実施することにより、多様な整備提案・要望に応えられる管理技術を確保するとともに、職員が行う工事監督における、安全確保、施工計画、施工における工夫、品質管理、工事記録等の重要さを再認識しました。
 また、土地改良区との共同施工を行うことにより、改良区職員に、維持管理や補修技術の移転等が図られています。

1) 管理マニュアルの作成
 本事業により造成した施設を宮川用水土地改良区が、 適切に管理し、施設の長寿命化を図るため、操作方法 やグリスアップ等のメンテナンス方法を取りまとめた 施設管理マニュアルを作成しました。

2) 改良区と一体となった作業による管理技術の移転
 事業完了後の造成施設の円滑な管理に資するため、施設管理予定者である宮川用水土地改良区と一体となった作業等を通じて、施設の整備や施設の操作・点検の技術移転を行いました。また、円滑な施設管理を図るため、施設管理予定者である改良区関係者等に対して施設管理技術の移転を行いました。


3) 事業所職員による直轄施工
事業所職員の通常業務に極力支障とならない時期に、直轄施工を実施しました。主な内容は、施設の管理軽減対策、施設の維持管理・整備及び施設の安全対策などです。



icon 12.おわりに



 宮川用水の受益地域となった土地の多くは、その昔、宮川の水位よりも高い位置に存在していたことからその水を利用することができず、もっぱら井戸水や天水に頼ってきたことにより、干ばつが頻繁に起こる地帯でした。
 このため、昭和32年から昭和41年にかけ、第一期事業である国営宮川用水土地改良事業を始めとする各種土地改良事業が実施され、この地域は県内有数の農業地帯として発展してきました。
 その後、地域農業をさらに発展させていくうえで、一層の水資源の有効活用と用水管理の効率化が必要になったことから、平成7年から平成24年にかけ、第二期事業が行われ、斎宮調整池、幹線用水路のパイプライン化などが完成しました。
 この宮川用水第二期地区で特に注目すべき点は、地域の自然環境や住民の生活に十分配慮して工事を施行したことです。
 粟生頭首工では、宮川流域ルネサンス事業の一環として、関係機関の実施する施策等と連携を図りつつ、アユなどの生態系に配慮した魚道タイプの放流工が新設されました。
 斎宮調整池では、大規模な土地改変となることから、自主的な環境影響調査を行い、法・県条例に準じて工事実施に伴う環境への影響を回避、最小化、修正、影響の低減/除去、代償(ミティゲーション5原則)に区分し、生態系や景観に配慮した措置として、池周辺において湿地の設置や小動物が這い上がれる側溝の整備などを造成しました。
 幹線水路の工事では、騒音や振動に配慮した施工機械を使用して、周辺環境に配慮し、水路等の管路化に際して創設される水路上部の空間については、植樹などを通じた有効活用により、地域住民の憩いの場となるような取り組みも行われています。
 さらに、事業に対する住民の理解を得るため、地域住民の参加によるカバープランツ等の植栽や各種施設の見学会などが実施されました。
 こうして、我が国の農業土木の技術を結集して完成した施設が、適切な用水配分と合理的な維持管理を実現することにより、農業経営の安定と地域農業の振興に資するとともに、今後かつてない重大な局面に遭遇しても、この地域の農業の発展に寄与できるものと期待しています。

【 引用参考文献 】 宮川用水第二期地区事業誌