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三河の恵み―矢作川の流れ -矢作川農業水利事業・矢作川第二農業水利事業・矢作川総合農業水利事業-
東海エリア
戦後の国営事業






取り残される台地の開発



志貴荘: 矢作川沿岸から現在の安城市南部
吉良荘: 矢作川東岸から矢作、古川流域を含めて西尾市の八面山麓
重原荘: 衣浦沿岸から現在の豊田市高岡・上郷両町
矢作川下流の沖積平野は、「福地(ふくじ)」とも呼ばれる穀倉地帯として開発が進んだ。
 645年(大化2年)に大化の改新の詔が発布されると、律令体制が確立されていきます。愛知県域も全面的に大和朝廷の支配下に置かれ、「尾張」「三河」の2国が設定されました。
 郡や郷が設けられ、全ての土地・人民を国家のものとする公地公民制のもと、人々には「口分田(くぶんでん)」が貸与され、収穫物から租税を納めることが義務付けられました。中央集権的な支配制度のもと、西三河では、主に開発の容易な矢作川沿岸の低地で開墾が進められました。
 しかし、口分田の不足や貧困農民の逃亡などによって、次第にこの公地公民制は崩れていきます。10世紀以降には、朝廷が土地の私有を認める「三世一身の法」や「墾田永年私財法」を制定したこともあり、貴族や寺社、地方豪族らが、競って荘園の開墾を進めていきます。
 西三河にも、志貴荘、吉良荘、重原荘など広大な荘園が開発されましたが、それらはいずれも矢作川の流域の低地のみを範囲とし、台地上の開発は未だ行われることはありませんでした。10世紀初めに書かれた書物である『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物には、矢作川沿岸に数多くの郷(村落)の名を見ることができますが、台地上にはごくわずかしか記されていません。
 台地に水を引くのに十分なかんがい技術が進歩しておらず、開発が困難であったため、西三河の大部分を占める広大な台地上の開発は取り残され、松などの広がる原野として放置される状況が続いていきます。この状況は、武士階級の台頭する鎌倉時代に入っても大きくは変わりません。(

※・・・ 西三河の地は、足利義氏が守護職に付いて以来、幡豆郡・額田郡一帯に足利氏が大きな勢力を確立し、主に矢作川(現在の矢作古川)下流の干拓による新田開発に力が注がれました。中でも、室町時代の1339年から1342年にかけて、現在の吉良町饗庭(あいば)を中心とした地域で行われた饗庭7郷の新田開発は、この地方では初めての大規模な開墾で、その後、吉良町や一色町でも新田開発が急速に行われていきました。



愛知県 ―矢作川農業水利事業・矢作川第二農業水利事業・矢作川総合農業水利事業