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開拓精神が生んだ農行王国 ―豊川用水事業
東海エリア
戦後の国営事業






苦悩の地が生んだ開拓者



 近藤は明治三年、渥美群高松村に生まれました。12歳の頃、当時旺盛を極めた自由民権運動で、板垣退助らが豊橋を訪れた時のこと。その演説を聞いた近藤は、「多情多感な僕にはその革新的な思想、政見に感動されずにはいられなかった。」と語っています。少年の頃から政治への関心が高かったのでしょう。その後、自らも政治の道に進み、渥美郡会議員、愛知県会議員を歴任。そして、世間で『青い目の人形』が流行した51歳の時、「国民生活の安定を期せしむるには、農地開発、干拓、水利などの工事を起こし二毛作を奨励するか、また一面海外移民生活をたてるのほかなし」と確信。当時、世界でも水利技術の高いオランダの領であったジャワ島への視察を思い立ちます。近藤は、ジャワ語はもとより、英語も全くできませんでしたが、「言葉は通ぜずとも手真似、物真似でも立派にやってくるから結果をみてください」と周囲に言い残し、単身神戸港から旅立ちます。

ジャワ島の風景が与えたもの



 ジャワ島の丘陵地域、バジャルガロを訪れた際のこと。所々の農家に夕煙の立つ風景に、近藤は、郷里の東三河を思い起こしました。同時に、その水利技術の高さに感心します。そこには、はるか高い山の頂上から谷底の集落まで鉄管をつないで取水し、途中の山腹には段を刻んで棚田が築かれていたのです。この時、近藤の頭にひとつの像が浮かび上がります。「鳳来寺山脈に堰提を築いて大貯水池を設け、その水を豊川に落とすことで、渥美半島をはじめとした東三河に灌漑用水を引くことができるのではないか。」これが、豊川用水の基盤となる構想の第一歩となります。
近藤寿市郎銅像(豊橋市)
 帰国した近藤は、すぐさまこの構想を国費で実行するように、愛知県知事と県議会に働きかけます。しかし、あまりにも壮大な計画だったため、「理想としては至極結構なるも、いうべくして行わるる問題にあらずや」と、近藤の構想を「変人扱いにして葬った」といわれています。ところが、誰もが荒唐無稽と決め込んだこの構想に、ただ一人共鳴した人物がいました。当時の愛知県耕地課長、横田利一です。
 近藤は横田と組んで調査にあたり、計画を立て、農林省に対して国営事業として施行するように陳情します。しかし、結果は虚しく終わり、この計画は議場から完全に姿を消すこととなります。



愛知県 ―豊川用水事業