第二章:開拓の風景


01

この地方の団体入植者は、ほとんど全国から集まっている。


「蜜と牛乳の流れる里」という甘言も巷では流行ったらしい。開墾すれば5haが自分のものにあるのならば、今の世でも人は殺到するのではなかろうか。


だが、条件の良い土地はすでに屯田兵村や資本家農場によって占められていた。開拓の割当て地は、奥へ奥へと入っていく。


そして、北見山地を越えた網走で、人は信じられぬ光景を目にすることになった。海が凍ってしまうのである。※1


零下30~40度になると、今でも寒さのため樹々の裂ける音が山中にこだまするという。こんなところで暮らしていけるのか


-流氷は、今でこそ観光資源となっているが、この地に着いて初めてそれを見た人の驚きと不安はいかばかりであったろう。


昼なお暗い巨木の森。大人3人でも抱えきれない木は、枝を払い皮を剥(は)ぎ、2年ほど待って立ち枯れにするしかない。気を切り倒しても、地中深く張った巨大な根株を掘り起こさねば耕地にはならない。


すべて、ノコギリや斧(おの)、鍬(くわ)などによる手作業。与えられた開拓用具はすぐボロボロになった。


また、地面を覆(おお)い尽くすようにはえた背丈ほどもある熊笹の原野。刈り取る苦労に加え、地中びっしりと鉄のフェンスのように張り巡らされたその太い根は、力いっぱい鍬を振り下ろしても跳ね返されるばかり。1日畳1枚分、畑らしくなるのに5年はかかったという。


開墾地の周りは一定の幅で熊笹を刈り取り、火防線をつくり。そして、火をつける。ところがそんな日に決まって強風が吹き、一面火の海と化し、建てたばかりの家もろとも焼けてしまう。大きい山火事は年に数回、小さいのは頻繁(ひんぱん)に起こった。


02

川沿いに開けた土地は比較的条件が良かったが、水害が頻発(ひんぱつ)した。この地方は、年間雨量800mmと全国一雨が少ない。また、土地は起伏が激しく、細い川が曲がりくねっていた。海岸沿いに、コムケ湖、シブノツナイ湖、サロマ湖、能取(のとろ)湖、網走湖、藻琴(もこと)湖、涛沸(とうふつ)湖と潟湖(かたこ)が並んでいる。土壌は排水が悪く、過湿地帯といってもいい。それほど大した雨でなくてもたちまち大災害となった。


そして、これは開拓が進めが進むほど、森林の伐採や河川周辺部の利用などによって、出水時の被害が増大する結果となった。開拓の矛盾といってもいい。


朝の起床は3時か4時。日が暮れるまで畑仕事。夜は洗濯や繕(つくろ)いもので、寝るのは零時過ぎ。「せめて4時間寝られたら」と毎晩、内地に向かって泣いたという。多くの子供を抱え※2、飲まず食わずで働きつづけた開拓民達。


空を黒く染めたというバッタの大発生※3(大正8~11年)。夏にこの地に居座るオホーツク寒気団のため、ほぼ4年に1回の割で発生する冷害。そして、一家の働き手を奪われた戦争。


ことあるたび、大半の農家は、次々とこの地を去っていった。


記されることもないが、開拓の歴史の大半は、離散者、脱落者の歴史でもある。


※1

流氷が押し寄せ、海は広大な氷の平原と化す。当時は道路事情が悪く、冬の雪道や流氷原の方が移動、運搬は楽だった。雪ゾリが使えたからである。


※2

余談ながら、出産の様子が凄まじい。「産むが産むまで、あたりまえに仕事してたんだヨ。」15人の子供を産んだある女性は、4番目の子供から自分一人で出産したという。「まず部屋暗くしてネ、畳1枚おこして、そこサ燕麦殻(つばめむぎから)厚くしいて、その上サ麦殻焼した灰うんとしくの。血や汚いもの、土にしみ込ませないようにするためなんだよ。そして、その上サぼろ布しいて、その上でお産するんだヨ。立膝で産むの。(以下、出産の記述)わしネ子産んで次の日から働いたんだから・・・」

(『語り継ぐ女の歴史』より)。


※3

知床半島の岩尾別は約60戸ほどの開拓農家があったが、大正8年からトノサマバッタが発生し、毎年、農作物のほとんどが全滅。バッタと蕗(ふき)を煮て食いつないだが、とうとう12年、全戸が撤退してしまった。

バッタの被害は、明治期の湧別や網走でも起こっている。


back-page next-page