芝原用水は、九頭竜川の左岸側を代表する水路であり、福井城下の生活用水兼農業用水として68の村を潤していました。結城秀康が越前初代藩主になった頃、家老の本田富正が開削したと言われています。
福井が城下町として発展するのは天正3年(1575年)柴田勝家が北ノ庄城を築いてからですが、当時、北ノ庄の水は鉄分が多くて飲料水には不適格であったらしく、上水道と城濠の水を確保するため九頭竜川から導水したと言われています。
しかし、右岸を灌漑する十郷用水や河合春近用水の水利権を侵害することはできず、取水は十郷大堰の下流に位置することとなり、以後、十郷、河合春近、芝原の水利権をめぐる紛争は昭和の時代まで続くこととなりました。
芝原用水は、志比堺で取水したのち中ノ郷町で、北側を通る外輪用水と南側の内輪用水に分岐します。
外輪用水は堂島ミツ口で五ヶ用水、八ヶ用水、九ヶ用水、四ヶ用水、三ヶ用水へと分かれ、計29の村を潤していました。
内輪用水は勝山街道沿いに南下、途中で三ツ屋用水、桜用水を分岐したあと福井城下に入り、さらにフタ口新橋で二本に分かれて侍や町屋敷の飲料水、生活用水として利用されていました。余談ですが、江戸の神田上水が1590~1629年、玉川上水が1653年、この芝原用水の完成は1607年ですから、日本で最も古い上水道ということになるのかもしれません。
芝原用水の管理の厳しさは前述しましたが、御上水が利用できる権利と引き換えに、用水の補修は農民の義務とされ、毎年の維持管理のため、村々には人夫が割り当てられていました。