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『 ― しが湖北 ― 丁野(ようの)誌 璨(さん)』を参考に大正十一年の「餅の井落し」の様子を要約してみたい。

01
井落としへ向かう右岸井組の隊列(写真提供:湖北町丁野区)

渇水がひどくなると、まず両岸の番水(取水のローテーション)が始まる。水不足が度を超すと右岸側から羽織を着た代表者三名が水の要請に来る。これは「当方も困っている」と答えて終わるだけの形式的行事。しかし、この要請を受けて役員は対岸の田を偵察し、水路の底が白く乾いているのを確認すれば、川浚え(水路掃除)と称して1日だけ堰から水を流す。


さらに日照りが続き、いよいよ「井落し」の気配が高まる。落す時刻は朝昼夕と決められているが、いつの日に実施されるかは不明である。対岸に偵察隊が派遣され、左岸の農民は他所足止め(自宅待機)となる。


そして、井落しの通報が入る。対岸からは「井落し」の合図である早鐘の音。こちらの村でも半鐘が激しく打ち鳴らされる。この時、鐘の下に置いたタライの水をかけ、鐘が焼け付くのを防いだというから半端な打ち方ではない。

村中に火事場さながらの緊張が走り、家々から6尺棒を担いだ若衆が飛び出してくる。服装は紺の襦袢に紺のパッチ。この恰好は四百年前から決められている。対岸は白襦袢、さらに違反者を特定できるよう各井組によって衣装が細かく定められていた。

井落しが始まる頃には警官や見物の野次馬が大勢群がる。夏であり、両岸はワイシャツの白一色に染まったという。

張り詰めた空気の中で両岸の代表が堰で対峙する。役員は白装束に紋付羽織、陣笠といういでたち。餅の井側の農民は褌ひとつになって待ち構える。




02
両岸代表の対峙(写真提供:湖北町丁野区)

この時の会話の記録はまちまちである。大正11年の場合は、


右岸:「連日旱天にて参りました」

左岸:「何しにお出になったか」

右岸:「飲料水欠乏のため、ご同様、用水困難につき井落しを願いにきました。なにとぞお許しを懇願」

左岸:「しからば古式に違反すること断じてなりませぬ。万一違反の行為あらば容赦せんぞ」


「かかれ」の合図とともに右岸側の男たちは鬨の声をあげて堰へとなだれ込む。左岸側はこれを阻止するために堰の上に座り込み、水をかける。水をかけるだけで、断じて手で阻止したり石を投げたりしてはならない。落す箇所も厳格に定められていた。


03
井落としの開始(写真提供:湖北町丁野区)



04
引き上げる白装束の隊列
出典:近畿農政局湖北農業水利事業所 『湖北農業水利事業誌』(昭和62年3月)

こうして約一時間に及ぶ攻防が展開される。落した個所からは水が怒涛のようにほとばしりでたという。続いて無抵抗の松田井落しが終わると、整然と隊列を組んで引き揚げる。


井明神橋から隊列の最後が消え去った時に、ようやく左岸は堰の修復に取りかかれるという決まりがあった。したがって、右岸は牛歩戦術をとり、隊列の時間を稼ぐため多くの農民が参加した。時に千人を超すこともあったらしい。


雨森集落は両岸にまたがっていたため、井落しには参加せず、紺の法被に黒帯、樫の棒を持って付近の山陰に潜んだという。


儀式とはいえ、1分でも違反すると大乱闘になるという一触即発の危機をはらんでいたのである。


この「餅の井落し」は一日に数回行なわれたこともあったという。この日も、引き揚げた右岸側が山陰に潜んでいたため、左岸の農民たちは四日四晩も見張りを続けたと記録にはある。

いったん落されると修復には大変な費用と手間がかかった。すべて農民の自己負担であった。

この年の餅の井落しは6月に1回、8月にも1回、9月には実に13回も行なわれたのである。


  • 05
    雨森集落の農民たち(写真提供:高月町雨森区)
  • 06
    井立ての様子(写真は昭和37年頃)



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