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 明治初期、奥羽街道の一宿場町に過ぎなかった郡山。当時の人口はわずか7千人。現在は市街地となっている安積地方、山田原、対面原、広谷原、大槻原、大蔵壇原、牛庭原、南原など数千haの台地は、水の便が乏しく、古来一度も耕されたことのないという茫漠たる原野であり、太古の姿そのままに明治の世を迎えました。


中条政恒
中条政恒

 明治5年、福島県に県官として赴任したのが中条政恒でした。彼は元米沢藩士でしたが、その頃にも北海道開拓を藩主に上申しているくらい熱心な開拓論者でした。赴任早々、県令(現知事)安場保和に士族による大槻原(おおつきはら)の開墾を建言します。

中条が中心となって開拓村の計画を立て、明治6年、政府の助成を得て旧二本松藩の士族28戸が大槻原に移住してきました。場所は、桑野のすぐ南、現在の安積高校のあたりです(下の地図参照)。

二本松藩は、戊辰戦争で旧幕府軍として会津藩と共に闘った藩(二本松少年隊の悲話で有名)であり、維新後は賊軍として冷遇され、士族は惨めな生活を強いられていました。移住とは言っても家屋などはなく、士族たちは近隣の寺院などに住みながら開拓地まで通ったとあります。


開墾は過酷なものでした。彼らの日記によれば、過重な労働と栄養不足から病人が続出、家族が次々に死亡するなど惨憺たる生活が綿々と綴られています。あるものは外国へ渡り、あるものは脱落、またある者は罪を犯して獄に入るなど離散。大正15年には、開拓当時の家族はわずか7戸という有様でした。

しかし、この二本松藩の細々とした開墾こそが、後の広大な安積原野開拓のスタートとなるわけです。


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