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01
鍍金冠
(ときんかん)
[古墳時代中期]

6世紀はじめのころ、第26代に数えられる継体[けいたい]天皇は、越前[えちぜん]の三国[みくに]の坂中井[さかない]出身だといわれています ※1。先代天皇の後継者[こうけいしゃ]が絶えたため、越前から迎えられたと「日本書紀」にはありますが、大和に入るのに20年も要しており、ナゾに満ちた天皇です。

彼は応神[おうじん]天皇(第15代)の5代孫にあたるらしいのですが、いくら後継者が絶えたとはいえ、大和王朝の天皇を遠い国※2から呼び寄せるということは、日本史上、例がありません。

このことは、様々な背景があるにせよ、当時の越前平野がいかに豊かであり、この地の豪族[ごうぞく]たちがいかに大きな勢力を持っていたかを物語[ものがた]っているのではないでしょうか。

事実、この地域の古墳[こふん]の多さは日本でもトップクラス。中でも、松岡町の二本松山[にほんまつやま]古墳は、金銀でメッキした国内最古の冠を出土したことでも有名です。

「続日本記[しょくにほんぎ]」では、古代、この平野は大きな湖でしたが、継体天皇が三国の岩山を切り裂いて湖の水を海へ流すことにより田畑を開いたとあります。ゆえに、三国は「水国[みくに]」であり、当時は、坂井[さかい]郡より広い範囲をさしていました。

さらに、三国や敦賀の港は古くから海上交通が盛んで、海外文化の多くがこの地から入ってくるなど、古代においては、いわば日本の玄関口であったともいえるようです。

作家の司馬遼太郎[しばりょうたろう]は、継体天皇が越前から迎えられたことについて、こう述べています。「このことは、古墳時代の越前の地が、他の先進、後進の地方にくらべ、農業生産や鉄器生産、あるいは灌漑[かんがい]土木が沸[わ]きたつほどにさかんであったのではないかということを想像させるのに充分なようである」※3


02
足羽神社
(福井市足羽上町)

さて、ここで灌漑[かんがい]土木という難しい言葉が出てきました。灌漑とは「田畑に水を引いてきてそそぎ、土地をうるおすこと」(『広辞苑[こうじえん]』)とあります。したがって灌漑土木とは、水を引いてくるための土木、つまり、「水路を造る」ということになります。

「続日本記[しょくにほんぎ]」の記述[きじゅつ]も、継体天皇は今でいう排水路や用水路を造ったという解釈が可能です。

また、天平宝字元年(757年)の記録には、奈良東大寺の領荘であった桑原荘(金津町)の大規模な灌漑施設の整備のことが記されています※4。実は、この越前平野は、日本で最も古くから大規模な水路が造られたところなのです※5




※1・・・この地方では継体天皇に関する伝承も多く、足羽神社にも祀られている。(上写真)


※2・・・当時の木の芽峠は険しく、この峠より北はすべて越の国と呼ばれ、弥生政権に従わぬ蝦夷経営の前進基地としての政治的役割を持っていた。

※3・・・『街道をゆく――越前の諸道』より

※4・・・天平宝字元年(757)の『越前国使等解』に、桑原荘内の溝の開削、樋の設置計画書が記されている。

※5・・・平安時代(1110年)に開削された十郷用水(延長28km)は、奈良時代からあった「五百原堰[いおはらぜき]」と繋いだといわれている。大和平野や河内平野には「大溝」と呼ばれる古い水路の記述はあるが、このような固有名詞を持った奈良時代の大規模な用水は全国でもほとんど例を見ない。日本で最も古い大規模水路のひとつと言ってもいいであろう。




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