条理の計画と技術

区画の必要性

 わが国の条里制のように、土地を区画してその所有や利用を秩序だてるという方式は、古今東西にわたって広く採られてきた。古くは、古代ローマ本国および植民地でのケンチュリア(百分田)であり、約710m四方の方形区画を縦横20×20に細分し、これを四つ集めて土地配分を行った。古代中国の阡陌地割・均田地割も同様の地割である。
 時代は下がって近代には、アメリカで実施されたタウンシップ制(6マイル=約9.7km四方およびその36等分のセクション)や、オーストラリアの植民区画が、イギリス本国の土地政策に沿って施行された。北海道には、タウンシップ制を範とした植民区画が広く分布している。
 これらの諸区画は、入植・開拓が進行するのに伴い、土地政策および区画設定業務の複雑化・量的増大を背景として、規則的・統一的区画の必要性が生じて設定されたのである。こうした区画は、無秩序な入植を規制し、整然とした新村を新開地に展開していく重要な枠組を形成した。


方位設定法

 条里区画は、東西~南北の正方位が理想であるとされ、現に大平野では正方位地割が今でも残っている。
 中国や朝鮮から暦や天文書が伝わったのは6世紀ごろのことである。そのうち、『周礼』に地上に表(測量用の竿)を立て、これを中心とした円を描き、日出・日入の影が同一周上に交わる点を記し、その2点を結んで正東西線を得、これを2等分して表と結んで正南北線を得る方法(日き法)がある。また、『周髀算経』には冬至の日の卯之時(6時)と酉之時(18時)に北極周辺の大星を望み、これらと地上に立てた表の先端とを結んで地上に2点を印し、両点を結んで正東西線、その2等分点と表を結んで正南北線を得る方法(極星法)がある。
 古代人は、早くから太陽や星を観測し、季節的変化や日々の時刻・方位などをこうした素朴にして正確な技術によって観測することを体得していたらしい。磁石によって方位を定めたという説もあるが、これは確かではない。

 現代的な視点からみると、方位の決定は、開拓に要する労働量に影響をおよほすので、広がりをもつ耕地を整備する場合、平野の主傾斜方向に合致させるのが最も土工量が少なく理想的であるとされる。方位の決定に当たっては、この点を考慮したところもあるだろう。



地割技術

 律令制下では算師と称する技術者が置かれ、造宮や開田図の制作に当たっていた。彼らのテキストとなった中国の算経書には、天文観測のほか、測量技術や土工に関する数量計算について詳しく述べられており、ピタゴラスの定理から直角を求める方法(勾股弦の理法)をはじめとする地割施行を可能とする応用技術が、ここから採られたであろう。
 たとえば、『海島算経』には、山項と山麓を見通し、表を用いて山の高さと山頂からの水平距離を求める例題が出ている。奈良盆地の南端に天香久山があり、その西麓に木之本という集落があって、ちょうど山項から3里離れている。幹線道路中ツ道の延長線が南北に天香久山を通るとともに、この山頂東西線が26条と27条の境界であり、かつ木之本の南境と一致する。このことから木之本は則量の基点「規の本」であると想定される。
 同様な地名は、尾張や近江・越前にもある。奈良盆地では耳成山・畝傍山などの山々がいずれも測量に利用されたらしい。また、岡山県山陽町には「にらみ石」、また各地に「条里石」という石柱があって、直角三角形を用いて地割を施行する基点となったという。
 このように、山や別途設定した目標物を基点として方位を正しつつ、しだいに条里地割を拡大したのであろうと思われる。



耕区割

 条里地割の基本区画(坪)は1町(約109m)四方であり、10筆の小区画によって構成される。1筆が1段(約12a)となり、耕区となる。これには、長さ30間×幅12間(約54m×22m)の半折型と、長さ60間(1町)×幅6間(約109m×11m)の長地型の2種類がある。どちらが基本形(先行形)であるか、また耕作上の最小単位である1段の区画の大きさと形状が何に基づいて決定されたかは、謎である。
 大きさについては、成年男子1人1日の耕耘可能面積であるという説があり、形については大化改新の詔に「凡そ田は長さ30歩、広さ12歩を段となし、10段を町となせ」とあって、この時期に制定された班田制が半折型の区画の根拠とされる。
 近代以降の耕地整備にあっては、耕区の形状と大きさは、農業機械の能率的な作業や適正な用排水管理を行い得るように決定されている。牛馬耕(犂耕)の導入には旋回数の少なくなる長地型が有利である反面、かんがいには半折型が有利である。また土工量からは、長地型地割の短辺を主傾斜方向に合わすのが土工量を最少とするが、等高線が不規則に蛇行するような地形では半折型や不整型が有利になる。
 条里地割の施行に当たっても、こうした観点から検討されたのであろうか。


施工技術

 古墳の築造と同様の施工技術、道具を用いたと思われる。まず、立木があれば伐採・焼き払いを行い、その後切株が腐るのを待って抜根・荒起こしを行う。さらに雑物・石礫の除去を行いながら地均しのための掘削・運土を行い、ほぼ水平な耕地にする。排水の便を図るため、区画方向にそって水路を開削し、掘削土を用いて水路に並行する道路をつくる。次にこれに直交する道路を配置して開墾作業にはいる。最後に、田の周囲の畦畔づくり、道路・水路の最終的な整備をして、開墾作業を終了する。

 たとえば讃岐平野(平均勾配1/300)の場合、こうした作業で試算すると、条里1坪(約1.2ha)当たりの開墾に要する労働力は500人~600人となる。これを単純に讃岐平野の条里全体にあてはめると、およそ1,000万人の労働量を要したと考えられる。このほかに、治水や利水工事を考えると、この2倍ほどの労働量が必要であったろうと推定されている。