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 この那須野ヶ原に移住してきたのは華族ばかりではなく、一般の農民もたくさんいました。大正期の終わり頃の記録では、移住者は約1000戸、5400人とあります。そのうち4割弱が茨城、富山、長野といった県外者で占められています。

 新天地とはいっても北海道同様、原野を拓く労働は苛酷なものであり、特に那須野ヶ原では、水路開削後も、水の苦労が付きまといました。特に飲み水の確保は困難で、昭和になっても「蔵を建てるか、井戸を掘るか」といわれるほどでした。

 この対策のため、3期に及ぶ国営事業に向けての調査が実施されています。第1期は、昭和4年から同18年という長期に及ぶ調査でした。この調査では、いわゆる地下ダムを造って揚水するという壮大な「可知構想」(可知寛一京大教授の案)が話題となりました。

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■整然とした農村景観(埼玉地区集落)

 第2期調査は、戦後の昭和25年から28年にかけて。ここでは戦後の食糧増産や国土総合開発の制定を機に、「可知構想」の実現を図るための国と県による調査でしたが、ダムサイトに難がある点や、恩恵の少ない上流側の反対もあって、実現にはいたりませんでした。

 そして、第3期調査は昭和35年から、地元の根強い要請に応えるため開始されました。

これらの調査や計画の内容は別稿「那須野原総合農地開発事業」(昭和41着工)に譲りますが、印南、矢板らの先人に劣らない地元関係者の努力によって、同事業が着工され、平成6年度の完了をもって、ようやくこの地域は、水の悩みから解消されることになりました。

 現在の那須野ヶ原は、これらの事業によって大きく変貌し、水の豊かな台地として県内でも有数の農業地帯となっています。

 しかし、今もこの地の農村景観は広々として、リゾート地が近いせいか、どこか外国風な雰囲気を感じさせます。首都移転問題でたびたび話題にのぼる那須地方。豊かな水を得た今、明治の元勲たちの見果てぬ夢が、まだあちこちで漂っているのかも知れません。


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■那須野ヶ原空撮(北西より東南を望む)

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