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 もっとも、那須野ヶ原全域がまったくの無人であったわけではありません。熊川、蛇尾川の扇頂部、つまり山裾付近の地域では水の利用が可能であり、鴨内、百村、蟇沼といったわずかな村が古くからあったようです。


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■右の2つの取水口は、蟇沼用水の取り入れ口を元の立岩から上流へ移動した時のもの(M36年)。中央左の四角の取水口も明治期の建設。現在の取水口は左端。その右側は土砂吐けゲート。

 記録に残る最も古い用水は、慶長年間(1596~1615年)に開削されたという蟇沼用水。これは蛇尾川上流筋に位置する蟇沼、折戸、上横林といった5集落が飲用水を確保するために造ったとあります。この用水はその後(1771)大田原藩によって延長され、藩直轄の「御用堀」として城下の飲料水に使用されました。したがって、水田への利用は長い間できなかったのですが、明治24年、ようやく灌漑用水として整備され、さらには戦後の国営事業でも改修されて、今も現役のまま水田を潤しています。


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■取水口近くの巻川用水 03
■長島堀のトンネル(西岩崎)

 次が、正保4年(1646)の巻川用水。これは現在の那須塩原駅(東北新幹線)の北側にあった7ヶ村が代官の許可を得て開削したものであり、熊川上流の大巻川から取水する延長18kmの長大な水路でした。飲用水が目的でしたが、天領であった28の村から3500人を動員したとあり、最初は水田開発も目論んでいたようです。しかし、取水口が壊れたり路線が変わったりするなどで、当時の水路は次第に廃堀となっていきました。

 那珂川から引くという難工事も試みられています。万治元年(1658)に開削されたという延長13kmの長島堀。これは最初から水田開発を目指しており、長島新田という村も誕生させています。詳しい記録は残っていませんが、西岩崎、埼玉、下厚崎(いずれも栃木県黒磯市)などに残っているトンネルや堀の跡から察すると、相当大規模なものであったと思われます。しかし、10数年後には水が流れなくなり、廃絶されました。その理由は明らかではありませんが、もともとこの地は浸透性の高い砂礫層でできており、通水途中のロスが極めて大きかったためと思われます。取水口も、洪水や崖崩れなどで破壊されてしまったのでしょう。


 また、穴沢という集落では、宝暦13年(1763)、那珂川支流の木ノ俣川から取水して、トンネルや崖沿いに水路を掘り、延長4kmの穴沢用水を開削しています。小さな水路ですが、戸数わずか27戸の自前工事としては大変であったことが想像されます。完成の時には、村民は喜びのあまり3日3晩祝宴を催し続けたとあります。そして、これ以後、毎年旧正月の24日には掘祝いを行い、画家に描かせた<水神祭図(下写真)>を掲げて先人の遺徳を偲んでいるといいます。


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■穴沢用水水神祭典図(出典:高根沢清次氏蔵)

 穴沢用水は、その後、下流の村にまで延長され、さらに文化7年(1810)、那須の名代官といわれる山口鉄五郎によって、210haの水田を開発するため、20km余りの水路へと拡張されました。しかし、これらの水田も、土地が痩せていることや、上流部では水が冷たすぎて収穫も少なく、次第に荒廃していきました。

 こう書くと、さぞかし農地には不向きな場所を想像しがちですが、地形としては理想的な扇状地(下写真参照)です。水さえ引ければ、稲の黄金郷となることが約束された土地。

 水さえ引ければ、水さえ引ければ・・・ この言葉は、ほとんど見果てぬ夢のごとくこの地を漂う歴史的幻想であったとも言えそうです。


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