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江戸の「八百八町」に対して、難波は「八百八橋」といわれる。実際、大正末期には1600余橋もあった。

現在は、下水道の整備で川も埋め立てられ半分くらいに減ったというが、それでも橋の長さを総計すると40km以上になるらしい。

水の都である。

それもそのはず、古墳時代まで大阪平野は下図のようになっており、現在の大阪市街は、上町台地を除いてほとんど海か沼であった。沼は河内湖と呼ばれた。今の河内平野の大半を占める。


01
1600~1800年前の古地理図
(『淀川農業水利史』(近畿農政局)より転載)

瀬田川(宇治川)は、山崎の地で、京都盆地から流れてきた桂川、伊賀盆地から出た木津川と合流して淀川となる。

淀川は“澱[よど]む川”の意であろう、河川勾配はさらに緩くなる。

加えてこの河内には、奈良盆地から来た大和川をはじめ、数本の河川が一同に集っていたのである。

8,240km2という広大な流域(日本の河川で7番目)の水が、この“澱む川”に集る。

当然のことながら、洪水の常襲地帯であった。


木津川は花崗岩の土砂流出が激しく、やがてこの沼も埋まっていく。しかし、少なくとも明治20年代まで、この地の光景は舟農業。道らしき道はほとんどなく、収穫物を積んだ船が、縦横無尽に張り巡らされた水路を往き来していたという。


寛文10年(1670)、琵琶湖農民の嘆願により、延べ14万人を動員した初の瀬田川浚[さら]えが行なわれた。しかし、その4年後、折り悪く下流の淀川一帯は未曾有の大洪水に見舞われる。下流にしてみれば「それみたことか」である。

このあたりから、治水をめぐって、瀬田川(琵琶湖農民)と淀川(河内農民)の利害が真っ向から対立し始めるのである。

むろん、それ以前にも洪水は頻繁に繰り返されていた。623年(推古帝)以来、明治元年まで、少なくとも記録に残る淀川洪水は239回。ほぼ5年に1回の割で起こっている。


02
天王寺公園の河底湖。
和気清麻呂の大和川付け替えの旧跡

古代から近年に至るこの地域の宿願は、常に洪水対策、つまり治水にあった。

古くは、世界最大の陵で有名な仁徳天皇による茨田[まんだ]堤。和気清麻呂[わけのきよまろ]による大和川の付け替え(失敗。左写真参照)。少し上流になるが秀吉による太閤堤などがあげられる。


しかし、洪水を避けるため川に堤防を築けば、今度は田の排水の行き場がなくなる。田の排水は“悪水[あくすい]”と呼ばれ、文字どおり田を湿泥化させる厄介な水である。取水と排水は水田における不可避的要素である。


河内農民の悲願は、大和川の付け替えであった。大和川を石川との合流点からそのまま西へ流し、上町台地の南端を掘りぬいて、堺の方へ落とす。庄屋・中九兵衛等が綿密な調査を重ね、増収計画も添えて陳情を繰り返したものの、受け入れられなかった。九兵衛は幕府直訴の決意がもれ、入牢の後開放されたが、計画が実行されないことを知るや川に身を投げている(大和川付け替えは、その約50年後、息子の甚兵衛が完成させている)。


03
大阪平野の河川変遷
『大地への刻印』(公共事業通信社)より転載

寺方荘(現在の守口市)に独断で排水溝を掘りぬき磔[はりつけ]の極刑にされた庄屋喜左衛門、8kmにわたる中島大水道を独力で完成させた西尾六右衛門、沢田久左衛門(後に切腹)など、この地の農民の義挙は少なくな


治水家・河村瑞賢をはじめ幕府側は淀川の水運を重視した。木津川からの土砂流出が激しいため河床が浅くなり、たびたび淀川は船の遡行に支障をきたしていた。大和川を付け替えれば、淀川の水深はさらに浅くなる。


この“澱む川”は、様々な利害の対立をめぐって、その解決も澱んでいたのである。


ともかくも、宇治川の栄華とは裏腹に、瀬田川、淀川はいずれも一本の川ながら明暗を分け合う関係だったのである。

この根本的解決は、実に、明治の淀川改良工事、及び昭和の琵琶湖総合開発まで持ち越されることになるのである。


03
安治川橋 明治18年の洪水(『淀川百年史』(近畿地方建設局)より転載)

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