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天与の地形が王朝の発展を促[うなが]したことは既に述べた。

その発展により、人間の活動や社会経済が肥大化してくると、今度は地形そのものが社会の間尺[ましゃく]に合わなくなってくる。


江戸時代、日本の農業生産高は飛躍的に伸びた。これは各地における農業水利が飛躍的に発達したことによる。江戸の葛西用水や尾張の宮田用水、安曇野の拾ヶ堰[じゅっかぜき]など、幕藩体制の各国では歴史的な大用水が次々と造られている。

しかし、この地域には少なくとも農業史に名を残すような大用水は見当たらない。

これはこの平野や盆地が古代から開発され尽くしていたせいもあろう。

かつて大阪平野が、ため池の多さでは日本でもトップクラスだったことを知る人も少なくなった。


もともとが湿地帯であるため、溜め池や地下水の汲み上げといった小規模な灌漑[かんがい]でも十分こと足りたわけである。

むしろこの地域の課題は排水にあったと言っていい。


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前述したが、淀川流域の特色は花崗岩の多いことである。とりわけ木津川からの土砂の流出が激しかった。それは一方で河口の三角州を広げ、大阪市街を拡大させたが、もう一方で河床を浅くさせ、常に洪水の災禍を引き起こしていた。

治水と舟運のため、淀川の堤防は徐々に高くなっていく。

古くから開発され、大規模な用水・排水路を持たないこの地域の農地は、いよいよ悪水との闘いが深刻化していく。


一方、左の写真でも分かるように、琵琶湖の湖東平野も農地の広さでは引けを取らない。しかし、こちらは、降れば冠水、照れば渇水。


大阪が洪水に見舞われるたび、瀬田川のある一点をめぐり、河内平野vs.湖東平野の利害対立が激しくなっていく。とりわけ、死者100名、被災者26万人を数えた明治18年(1885)の淀川大洪水。大災害は、22年、28年と続き、翌29年は死者360名という大惨事となった。


近代化を急ぐ明治政府は、この深刻な問題の解決をお雇い外国人技師ファン・ドールン、ヨハネス・デレーケ等に依頼した。余談になるが、ドールンの月給は当時の金で500円。一般官吏のそれは7~8円。4円も出せば夕食付きの家が借りられた時代の話である。いかに彼等への期待が大きかったかを物語っていよう。


彼等がもたらしたオランダ式工法は、流域全体で解決を図るという画期的なものであった。デレーケが施した工事は、河川の浸食と土砂の堆積防止を図る水制工と水源の砂防工事。砂防に工事予算の半分を費やすことを主張した。


特に、瀬田川流域に広がる田上[たなかみ]山一帯は、古代から都や寺院の建設で伐採が続き、有名なはげ山地帯であった。

世界語として通用する日本の「砂防[さぼう]」は、彼等の指導によるものである。


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沖野忠雄博士※
(『淀川百年史』(近畿地方建設局)より転載)

山からの土砂流出を食い止める。確かにその通りである。しかし、これは息の長い話であり、当時頻発していた洪水を直ちに防ぐものではない。

淀川全域に及ぶ、緊急かつ抜本的な改修が必要だったことは誰の目にも明らかだったが、当時は日清・日露戦争など国家の存亡に関する重大な問題をかかえており、技師達は苦悩した。


しかし、千年以上続いたこの歴史的矛盾を解決したのは、西洋で学んだ日本の技術者達であった。その中心となったのが当時、内務省技師であった沖野忠雄博士。

瀬田川のある一点を深く掘り下げて、川幅も広げ、そこにゲートによって流量を調節できる巨大な堰を設置したのである。

南郷洗堰[なんごうあらいぜき]──いわば、琵琶湖のため池化である。この卓抜比類のない着想は、ようやく日露戦争が終ってポーツマス条約が締結された明治38年(1905)に完成を見るのである。


王朝の湖水、近代化の夜明けである。


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現在の南郷洗堰



※沖野忠雄博士

明治8年パリ留学、土木建築技師の資格を得て同14年帰国。この淀川改修工事をはじめ、全国の河川直轄工事監督官を歴任。オランダ人技術者の工法をわが国の河川様式に修正した功績で名高い。

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