北陸といえば、室町後期から戦国時代にかけて「百姓の持ちたる国」として1世紀もの間、国人や農民門徒が支配したという日本史上稀有の歴史を持っている。いわゆる一向一揆である。
一揆とは農民の反乱や暴動を意味するようになったが、本来的には一致協力して目的を達成することを意味し、そのために盟約を結んで政治的共同体を結成することを意味している。したがって、室町時代後期に頻発した惣村(村落の自治を目指した共同体)と期を同じくして発生した。
奈良・平安時代にかけての北陸は畿内政権の米倉であった。越前から越中にかけては東大寺や興福寺など中央貴族や有力寺院の荘園が数多く造られた。
やがて時代が下がると、荘園を警護していた武士も自らが在地領主になるなど力をつけ、朝廷の力が弱まるにしたがって農地の支配権は錯綜し、各地で争いが頻発するようになる。
ところが、どういうわけかその頃、日本では宗教上の偉人が続出する。法然、親鸞、道元、日蓮……。彼らはこれまでの貴族を中心とした仏教にとらわれることなく真に民衆の救済を願う新しい教義を築き、自らが各地へ足を運んで布教活動を展開する。日本における宗教革命と言ってもいいであろう。
時代はさらにきな臭さを増し、鎌倉、北条、南北朝、そして足利幕府と戦乱の世が続く。そこへ起こったのが天候の異変であった。
過去の長期的な気候変動を見ると、15世紀と18世紀には小氷期と呼ばれる世界的な気温の低下があったらしい。
日本でも長禄3年(1459)から3年間ほど全国的な凶作が続き、多数の飢餓が発生している。例えば、越前の川口荘では寛正元年(1460)の冬から翌年7月にかけての餓死者9,268人と記録にある(大乗院寺社『雑事記』)。また、京都では同2年の正月から2月までの死者だけでも8万2,000人を数えた( 太極『碧山日録』)。
当時の日本の人口は2,000万人程度であったが、その半分程度が餓死したともいう。
かろうじて生き残った農民たちは、身分の隔てなく救済してくれるという新しき仏の教えにすがりながら、現世の煩わしい制度自体を呪ったに違いない。村は自らが自らの命をかけて守ることを誓いあい、領主からの独立を目指した。全国的な展開にまでなった惣村運動である。
北陸の惣村運動は、それが浄土真宗(一向宗とも呼ばれた)と強く結びついたところに特色があった。もともと一向宗の強い土地柄であったが、おりしもその頃、中興の祖である蓮如が越前の吉崎に御坊を築き、北陸への布教を始めている。油に火を放つように一向一揆は北陸一帯に燃え広がりあちこちで戦いが勃発した。
1488年、門徒約20万人が結束し、ついにこの地の守護大名富樫氏を滅ぼし、ここに戦国の世ながら約1世紀にわたって続く「百姓の持ちたる国」が成立するわけである。
しかし、それは彼らが目指した極楽浄土とは程遠いものであった。特に越中は、椎名・神保といった守護代の争い(越中大乱)に一向一揆徒が加わり、東から越後の上杉謙信、西から織田信長と攻め込まれ、戦乱のるつぼと化した。
農具を捨て極楽を夢見て集まった百姓勢に戦の何が分かろう。しかし、南無阿弥陀仏を唱えながら捨て身で向かってくる彼らに戦上手の謙信も信長も初めはなす術がなかった。その代償が累々と築かれた死体の山。
信長は長島一向衆との戦いでは2万人、石山本願寺では1万人を殺したとされる。しかし、北陸の一向宗との戦いでは、その数4万とも7万とも言われている。飢餓を生き延びてなお地獄であった。
戦国時代は必然的に全ての国土が赤々とした血に染まったが、死者の大半が百姓であったところにこの地の悲劇の特性がある。
ヨーロッパでは、ルネサンスの後、つまり「暗黒の中世」が終わりを告げ、市民という概念が成立した後に、ルター、カルバンなどによるいわゆる宗教革命が起こっている。
しかし、日本では逆であった。一種の市民社会運動ともいえる惣村は武士によって徹底的に弾圧され、いわば一向一揆を殲滅する形で近世の封建制度が確立したのである。
現在も日本の社会における宗教は、西欧ほどおおっぴらな市民権を得ていない。その要因をこうした早すぎた宗教革命に求める識者も少なくない。
さて、長かった戦国の世が終わり、この荒れ果てた地、加賀、能登、越中を領したのが前田利家である。
前田家だけが何故3つもの国を与えられたのか史料では詳らかではない。ひとつには生き残った農民があまりにも少なすぎたためではなかろうか。
そのためかどうか、前田家は農民を主体とする十村制、田地割、改作法など独自の農政を布いている。越中では全国一律であった太閤検地も免れている。検地は前田家に任せられ、検地帳には村高のみで耕作者の名も記されないなど以前の土地所有関係をそのままにし農民の自治を重んじた。一向一揆の再発を恐れたためとも言われている。
前田家はもうひとつの気配りを要した。この地の前任者・佐々成政の善政である。
佐々成政は織田家の家臣として、この地の守護代・神保長住の補佐役として富山に赴いただけにもかかわらず、常願寺川の洪水を見かねて自ら先頭に立ち「佐々堤」、「済民堤」を築いた。
長住失脚の後、富山城主となった成政はその後も鼬川の改修や常願寺川に堤防を築くなど、治世はわずか5年ながら今なお語り継がれるほど民政に尽くしている。後を任された前田家は、農民政策に腐心せざるを得なかったに相違ない。
人間たちが無益な戦をしている間に、常願寺川は堤防が必要なまでの荒々しい乱暴な河川に成長したらしい。記録として登場する常願寺川の大がかりな治水はこれが始めてである。