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01
明治25年 用水開削工事
出典『常西合口用水誌』

「なんと日本中には、崩壊山地が多いことか。あっちにも、こっちにも崩れだらけ」。作家の幸田文は70歳を越して憑かれたように全国の崩壊地を巡り、『崩れ』と題した随筆集を残している。立山カルデラは、「異様というか、奇怪というか、神秘というか、自然の威厳というか、生まれてはじめて見る光景である」。


地史学や火山学の観点から見れば、立山崩れも平凡な現象のひとつに過ぎない。現在の日本でも土石流の危険個所は8万を超え、約430万人が被災の危機にあるという。


安政5年の大崩壊は、平成5年であってもおかしくはない。何億年を扱う地質学的年代から見れば、百年など瞬きする間でもない。

山は崩れる。谷や川はその山の崩れを流すべく自然が造った流路なのである。幸田文は「谷」をこう書く。「両側から窪められたところ、剥がれたところ、はざま、物の落ち込むところ、そして何よりも、岩石を運ぶ道筋だと思った」。


山は崩れ、川は土砂を流し、時に荒れ狂い人馬を襲う。その土の上で人は農を営む。どこの平野でも何百年と繰り返されてきた光景である。繰り返しになるが、常願寺川の農人はそれを100年足らずで体験させられたに過ぎない。ここで述べてきた常願寺川のことは、日本の農史のごく一部であり、またすべてでもある。

あらゆる大地は人が改良してきたもの。人が目にする里の自然もまた、こうした苦闘を乗り越えて人々が創ってきたものである。

立山砂防は今も延々と続けられている。そして、数十年間、激流に曝されながら平野に水を運びつづけた横江頭首工、分水工、水路橋なども現在改修が進んでいる。

しかし、この先、大地はいつ揺れるかも知れず、山はいつ崩れるかも知れず、川はいつ溢れるかも知れない。今でもカルデラは、鳶山崩れの半分の土砂を抱えたままである。

地質学的スケールで見れば、人の営みなど巨像の背に乗った蟻のようなものに過ぎない。せめて、予知でもできないものか。


そうしたとりとめのない想いが、河畔に佇む巨石の前で、私たちの胸をよぎる。


02
常願寺川

予知といえば、イワナは天候が悪化する半日前から貪るようにエサを取るらしい。そして、鉄砲水が出る数時間前に砂を飲んで身体に重みをつけ、岩陰にひそんで待つという。

本能と片付けるのは容易い。イワナはその短い生涯の記憶を卵子に伝える。数々の記憶があまたの交配を通して取捨選択され、やがて種の記憶となってDNAとやらに刻み込まれる。

つまり、予知能力とは種の記憶が昇華、あるいは結晶したものではなかろうか。


昔の花見は、桜の花で1年の天候を予測する重要な農事であった。雲や風で天気を読み、鳥の声で異変を察知した。草木の茂り方で水脈を知り、土を舐めて養分を量った。また、住む土地の良し悪しも知っていた。忌むべき土地、避けるべき場所。山に訊き、川に学び、生き物に教わった。地質学ファンの間では、「断層を探すには神社を探せ」とも言うらしい。危うい土地には神を祀ったのであろう。そうした、幾世代にもわたって継承されてきた農人の記憶。

立山山中に地獄をえがいたのは、こうした古人の予知でもあり、中央構造線は知らずとも、ホモサピエンスの時代から継承されてきた地質学的記憶であったかも知れない。

あるいは中世、忽然と起こったわが国の宗教改革は、人の欲が招くであろう戦乱の生き地獄や小氷期がもたらす避けようもない飢餓へのメッセージであったかもしれない。


宗教といえば、この地はまた激しい一揆の歴史を持つ。前述した一向一揆、5万人の百姓が蜂起し、自由民権運動の魁ともなったばんどり騒動、越中女一揆と揶揄されながら全国に燃え広がり、時の内閣まで総辞職させた大正の米騒動。ことの正、不正をこの地の人々は、山河との生死をかけた闘いを通して、身体に染み込ませてきたに相違ない。


甲斐の武田信玄、肥後の加藤清正、そして、越中の佐々成正。400年の歳月を経ていまだ昨日のことのように語る土地の人の熱い想いは、天然の猛威から民百姓を救ってくれたことへの、どれほど伝えても伝えきれない感謝の記憶ではなかろうか。


ならば私たちの社会も同じように、デ・レーケに5万円(現在の4億円)を払ってその労に報いた明治の志を忘れるべきではない。怠けた分だけ国が遅れると勉学に身を削った古市公威の気概、砂防を学ぶため自費で留学した赤木正雄の恩、そして、なにより、幾多の洪水の犠牲者と、筆舌に尽くしがき苦闘をもって今の豊かな大地を築きあげてくれた幾万という名もなき草莽の民のことを、私たちは決して忘れるべきではなかろう。


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※ページ上部イメージ写真 : 立山連邦
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