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icon緑の革命


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出典:『富山県土地改良誌』

俗に北陸では「越中泥棒、加賀乞食」などという。加賀の人は貧に際して乞食を選ぶが、越中者は泥棒してでも生きのびる。穏やかではないが両国の気質を示しているらしい。

加賀はさておき、確かに富山県人の粘り、力強さはただごとではない。

いささか悲惨な記述が続いたが、驚くべきことに明治19年、富山県は米の反収日本一の栄誉を獲得しているのである。品種の研究や土地改良の成果であろう。

この地の農事試験場は明治17年に始まっている。同27年には県立では全国初の農学校も設立され、水稲農林一号を生み出した鉢蝋清香、小麦農林10号の稲塚謙次郎が育っている。農林1号は現在のササニシキ、コシヒカリの元祖。早生・良食味、多収とすべてに抜きん出て、戦前には北陸や東北を席巻し20%近い増収をもたらした。また、小麦農林10号は「ノーリン・テン」として海外で爆発的に普及し、特にインドやパキスタンで小麦生産量を4倍にまで上げ、飢餓の克服に大きく貢献。世界中にいわゆる「緑の革命」をもたらした品種である。


icon実学の広い裾野


こうした研究者の素地は一朝一夕に築かれるものではない。富山は昔から学問や研究に秀でた土地柄であった。例えば、江戸時代、この地の寺子屋の多さは各藩の中でもトップクラス。中でも臨池居(小西屋)は生徒800人を擁し、全国でも3本の指に入る規模だったという。また、算術や珠算専門の塾もあり、測量、天体観測なども教えていた。江戸期を代表する和算家・測量家の石黒信由も射水市出身であり、各地に門人を抱えていた。

黒部に十二貫野用水を拓いた椎名道三。17歳にして数ヘクタールの開田をしたという天才であり、その後、加賀藩の技術者として生涯に1,200ヘクタールという新田を拓いた。彼は常願寺川右岸の高原野に用水を引くべく測量を行なったが、志半ばで斃れる。しかし、その成果は開削の手本となり、この地の開拓に大きく貢献したという。

置き薬として名高い「越中富山の薬売り」は富山二代目藩主が広めたという。越中薬の伝統は平安時代にさかのぼる。他の地域が草根木皮で作られた薬であったのに対し、越中薬は動物生薬、麝香・牛黄・熊胆などを調合するところに特徴があった。さらに、鎌倉時代、立山信仰と絡んで岩峅寺などの宗徒が全国に広めた。したがって、庶民までがいわゆる化学のような知識を身に付けたらしい。また、全国を巡る行商には、必然的に読み書き算盤の能力を要求した。

また、富山は「三津七湊」のひとつとして北前船で賑わった商業港でもあった。天体観測や航海術はいわば必須科目でもあった。

越中は近江と共に商業が美徳とされた地域である。工学、化学、商学といった実学が重んじられたのであろう。

明治末期、この地では足踏み式脱穀機が考案され、300年も使用されてきた千歯扱を駆逐する。大正式稲扱機を発明した岩田清継、螺旋水車(脱穀機や精米などに利用)を発明した元井豊蔵、金岡式火力乾燥機を発明した金岡甚三、いずれも越中の産である。


icon洪水の禍をエネルギーに


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富山といえば水力発電を挙げねばなるまい。富山に電燈が灯ったのは明治32年。薬種商・金岡又左衛門が密田孝吉とともに富山電燈を設立したことに始まる。密田は売薬商であったが「洪水禍のエネルギーを電力に変える」という夢を持っていたという。

日本初の水力発電は琵琶湖疏水の蹴上発電所。明治24年である。彼らはそのわずか8年後に発電所を造り、民間事業として成功させた。その後、県が発電事業を推進したことから工場立地が相次ぎ、県の工業化の牽引力となった。早くも昭和10年には日本一の電力県となっている(現在も日本一)。

さらに特筆すべきことは、農業用水との共存である。この川の扇頂部(上滝付近)の標高は170メートル。神通川の100メートルと比べて突出している。したがって、水路は著しい急勾配をなしており、電力会社はここに着目した。昭和39年には常西用水路に3ヶ所の発電所が完成している。これにより農家の負担は著しく軽減された。現在、常東・常西あわせて5ヶ所、富山県全体の用水路発電は29ヶ所と全国一を誇っている。

見事に洪水の禍を日本一の資源としたわけである。


icon泥海転じて美田となす


禍を福に変えたという意味では、水田も劣りはしない。洪水は肥沃な山の土を平野に運ぶ。皮肉なことに、常願寺川沿いの水田も洪水のたびに沃野と化した。「金を積んでも要らぬ」とまで言われた桑原、田畠、大庄(富山市)など今はどこにも負けぬ美田となった。


昭和33年の水田裏作率は58%であった。これは新潟県(4%)、福井県(8%)、石川県(20%)等と比べても図抜けている。

現在、水田率96%(平成18年)と全国一。また水田の整備率は81%と全国3位。


常西用水は富山市の上水道や工業用水も供給している。上述した発電事業との共存。そして合口事業も、建設省(国土交通省)と農林水産省が協力をして成し遂げた。これだけ利害の競合する機関が協力し合ったということ自体、あまり例がない。


それにしても、この扇状地の見事な水利網はどうだろう。横江頭首工から水は東に伸び西に伸び、あたかも欅の巨木のように整然と枝分かれしながらこの約8,000ヘクタールという広大な沃野を一部の隙もなく潤している。

尖山を借景とした両岸分水工。轟々と飛沫をあげる大落差工。アーチや飾り窓を配した水路橋。そして、桜で賑わう常西用水路。


紛れもなく、近代農業土木の1、2を争う資産と言えるのではあるまいか。


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※ページ上部イメージ写真 : 春の常西合口用水路
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