亀田町(現新潟市)が発行した『亀田の歴史こぼれ話』には、次のような記述がある。
「亀田甚句に読み込まれている稲葉の山は高山に続く丘陵地帯の中でもひときわ高くそびえ立つ文字通りの山であった」「(稲葉神社は)石の階段を三十数段登り、山頂の境内に達したものだった。幕末の『亀田八景』には「稲葉の晴嵐」と謳われ、観天望気の見晴台であった」。
「向山は二百五十年前の宝暦年間、人々の立ち入りを許さない『荒砂山』であった」「向山は亀田町の人がそう呼び、袋津の人々は大山と唱え、北山では十兵衛山と呼んだ。この砂丘を囲む村落の人々が畏敬の念を持って眺めた丘であった」。
亀田郷を知らない人がこの文章を読めば、さぞかし大きな山の姿を想像するであろう。
しかし、ここに描かれた稲葉山、向山などは大昔にできた砂丘の跡であり、標高はせいぜい7、8メートルに過ぎない。
この地には他にも城山、茅野山、舟戸山、北山、西山、松山、石山、栗山、丸山……、と山のつく地名が異様に多い。ところが、そこは周囲の土地よりも数メートルほど盛り上がっているだけのうっすらとした微高地であり、他所から来た人は勾配にも気づかない程のありふれた住宅地である。
しかしながら、このわずか数メートルに満たない土地の高低差こそが、何百年と続いたこの地の生活の明暗を分けたのである。
亀田郷 ―― 図1で示せば、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川、そして日本海で囲まれた、東西11キロ、南北10キロに及ぶ約1万ヘクタールの地域である。
この3つの川に囲まれた土地は、現在でも実に3分の2が日本海の平均潮位より低い。鳥屋野潟にいたっては海抜マイナス2.5メートル。この鳥屋野潟を底にして全体が大きな皿のような地形になっているのである。
そこへ日本有数の大河である信濃川、阿賀野川などが流れ込み、時に濁流となって押し寄せた。
中世まで、この地には19におよぶ大小さまざまな潟湖があったという。潟湖とは、むかし海であったところが外海と分離されてできた湖のこと。
今でこそ日本屈指の美田を誇る亀田郷も、むかしは一面に芦の生い茂る「芦沼」とも呼ばれ、浅海とも沼とも川の中洲とも判別のつかぬ水浸しの大地であった。
空撮写真を見ると、集落群(住居地域)が全体に右上斜めの縞状になっていることが分かる。現在は多くが市街化されて不明瞭になっているが、この地には数本の砂丘が平行に並んでいる(黄色い破線)。砂丘の高さは1~数メートル。この水浸しの島の中で砂丘の上だけが人間の暮らせる場所であった。太古、人々はこのわずかに高くなった処を「山」と呼んで集落を造り、農を営んできたのである。
冒頭で記した稲葉山も向山もこの砂丘の上にある。山と呼ぶなら、おそらく世界で最も低い「山」であろう。
しかし、この海抜以下の水郷地帯で、小舟を操り、腰や胸まで泥に浸かりながら稲を育てるという、いわば水棲動物に近い暮らしを強いられてきた人たちにとってみれば、これらの「山」は確かに高かったのであろう。
さらに、この「山」は田畑、森などから産物を得る、いわゆる「宝の山」でもあった。
古来、日本において水田を造るとは水路を造ることを意味した。水田には大量の水が要る。農民の心配事の大半は水不足であり、このため村々では水争いが頻発した。
しかし、この亀田郷における水田造りとは何よりもまず水の排除であり、洪水との闘いであった。この点において、亀田郷の農は極めて特異な歴史を歩んできたと言えよう。
本冊子は新親松排水機場の完成(平成21年)を記念して刊行するものである。
排水という観点から、この亀田郷農民の凄まじい水との闘いぶりを振り返ってみたい。