栗ノ木川は、この地の排水を引き受けた母なる川であったが、もうひとつ、郷内には亀田郷を育ててきた父のような存在があった。
鳥屋野潟である。総面積180ヘクタールにおよぶこの湖は、今日にいたるまで、郷内の遊水池(ダム)として絶大な役割を果たしてきたのである。大雨に襲われても、郷内の水はすべてこの湖に流れこむ。そしてゆっくり海へと流す。逆に、河口の水が逆流してもこの鳥屋野潟が受け止めてくれた。
さらにこの鳥屋野潟は、この地ならではの大きな役割を持っていた。湖底に積もった埃土(有機物を含む泥)である。この埃土は客土として、いかなる肥料にも勝る滋養分を持っていた。
「地図にない湖」と呼ばれた亀田郷の湿田地帯。農民は自分の田を1センチでも高くするため、鳥屋野潟などの底に溜まっている埃土を田に入れた。潟の土はジョレンという器具で掻き上げ、舟に載せて田まで運ぶという気の遠くなるような作業であった。
客土一寸で一石の増収を生むとも言われた。この埃土は、集落ごとに採る場所が決められているほど貴重な資源であった。魚も大きな収入源であり、漁業権もあった。この潟湖で獲れる葭(屋根材)や真菰(生活材)、菱(食材・薬)、水草なども現金収入を助けた。
この地における主な移動手段は舟であった。郷内には100本を越える舟堀(水路)が縦横無尽に走り、集落をつないでいた。
むろん、この舟堀は田の用水路であり、排水も兼ねていた。舟は、特に稲刈りの収穫時には欠かせない運搬具であり、大抵の農家が1、2艘は持っていた。この舟堀も田植えや収穫時には舟で満杯になるため、下流の後発農地では作業時期をずらすため早生を作るという慣行もあったという。
通常の村の道は1メートル幅ほどの草道。主要道路も幅2.7メートル、対して舟堀は3.6メートルもあった。
田植えは、左の写真以上の説明は不要であろう。腰や胸まで泥の田に浸かりながら、泳ぐようにして稲を植えたという。もっとも、これは最も条件の悪い深田での様子である。微高地の良田では普通の田植えがなされた。標高2、3メートルというわずかな差が天国と地獄のような違いを生んだことになる。
作家の司馬遼太郎は、『芦沼』という農作業の記録映画を観てこう述べている。「食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか」(『街道をゆく――潟のみち』)
稲刈りもまた水につかっての作業だった。刈るには下半身の力も要るので、足が粘土質の泥にとられて動きにくい。このため竹棒を何本か編んだカンジキを履いた。さらに深田では箱カンジキも履いた。竹棒数本の上に箱を乗せたものであり、転ぶと足が浮き上がって起き上がれず、命取りにもなったという。
稲刈りが終わると12月。ハサ稲に雪のかかることもしばしばであった。