a a
title

01

icon都築弥厚の用水計画


02
都築弥厚開削願書写し 03
石川喜平のそろばん(上)、測量に使用した見盤(中)、測量に使用した算木(下)

 この荒寥たる草野に、用水開削が計画されたのは、江戸末期のことである。和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農 都築弥厚は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市) から水を引き、延々30kmにも及ぶ水路によって台地を潤す大用水の開削を計画する。事業成功によって見込まれる新田開発面積は4,200町歩、収穫は5万石と、現代の農業水利事業にも引けをとらない大事業であった。

 しかし、当然のことながら、この壮大なプランを実現するのは並大抵のことではなかった。隣の高棚村(現在の安城市高棚町)の数学者 石川喜平の協力を得て、直ちに測量が始められたが、作業は困難を極める。何より障害となったのは、地元農民の妨害であった。水害の発生や「入会地」の減少を恐れた農民たちは、時に暴徒化して竹やりを持ち襲いくるほどで、作業は人目を避け、夜間密かに行われた。提灯や火縄のわずかな明かりを頼りに作業を進めるも、目印に杭でも打とうものなら気付かれて抜かれてしまう。綿や蕎麦の種子を蒔き、発芽した場所を目印にしたという。まさに命がけの測量、その熱意たるや想像を絶するものであったに違いない。

 それでも、五年もの歳月をかけ測量図が完成、1833(天保4)年には、幕府から一部開発の許可も下りている。しかし、同年、弥厚は、長年の激務がたたったのか、病没してしまう。享年69歳、莫大な財産は全て失い、借財は2万5千両、現在の金額で50億円ほどにもかさんでいたという。彼の死とともに、計画は挫折した。


icon悲願の開削工事


04
明治用水灌漑地図(明治30年)
 時代は明治へと移り、石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって、弥厚の計画は蘇る。しかし、このころ明治維新という時代の激変によって、地方役所は新設と廃止を繰り返す混乱期にあり、出願された用水計画は一向に日の目を見なかった。明治五年、愛知県が成立すると、岡本の計画は同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎の計画と一本化することでようやく許可が下りる。以後、2人は協力して地元農民の説得や工費の調達に奔走した。悲願の開削工事が着手されたのは、明治12年1月。工費は16万3千円、現在の金額で約23億円であった。6人の協力者から出資を得、足りない分は、愛知県が立て替えた。鍬ともっこによる人海戦術で、昼夜兼行で工事が進められるも、それでもまだ反対の声は絶えなかった。岡本は、この時、「工事ができあがれば、恨む村は3か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない。」と強く言い放ったといわれている。


icon明治用水の実現


 明治13年、ついに「明治用水」は完成を見る。3月には「明治本流」が、5月には「中井筋」と「東井筋」が、翌年には「西井筋」が完成した。総延長は52km、県は引き続き支流約40本の開削を続け、明治18年6月にはほぼ現在の明治用水の姿となった。

 用水が開削されるにつれて、不毛の土地として見放されてきた台地面は、次々と水田として開墾されていった。明治用水の場合、こうした開田地から徴収した配水料によって県の調達金を含めた当時の工事費用が賄われた。つまり、民間の着想と資金調達だけでこの歴史的大事業を成し遂げたことになる。この業績は、まさに明治の世に燦然と輝く金字塔といえるだろう。

05
明治用水旧頭首工(明治42年完成)の絵図
06
右から伊豫田与八郎像(豊田市畝部西町)、石川喜平像(安城市高棚町)、都築弥厚像(安城市和泉町)、岡本兵松像(安城市石井町)
back-page bar next-page