ここでは、幾多の変遷を遂げた明治用水の歩みを辿ってみたい。
開削当時、矢作川に設けられたのは丸太で杭を打ち、割石を積み上げた導水堤だけだったが、漏水が多く、破損を繰り返していた。そのため、明治34年から、当時の最新技術を導入し、堰堤の築造が行われた。工事を請負ったのは碧海郡新川町(現碧南市西山町)の服部長七。彼の発明した人造石(タタキ)を使ってつくられた堰堤は、舟運業も考慮に入れ、舟通閘門なども完備した近代的なものであった。この堰堤は、現在も一部が残っており、その堅固さをうかがうことができる。昭和7年からは県営事業として水路のコンクリート護岸工事などが行われるが、戦時体制の強化や労力、資材不足などの状況が重なり、次第に事業は困難となっていった。
終戦を迎え、差し迫った食糧増産の必要性もあり、ようやく老朽化した水利施設の抜本的な改修が実現する。昭和33年には、5年あまりをかけて、現在の頭首工が完成し、同時に用水路、排水路が改修された。しかし、この頃から、日本の水秩序に、大きな異変がもたらされようとしていた。高度経済成長に伴い、新規の工場が著しく増加。工場の建設は、周辺の宅地化や団地の形成につながり、人口増加をもたらした。水路には、工業排水や生活排水が流入するようになり、水質が悪化、稲の根腐れなど大きな被害が発生した。
一方、都市化に伴い、地域の水需要も、農業用水に加え、工業用水、生活用水と急激に増加した。昭和35年ごろには、矢作川の自流のみでは到底対処できない状況となり、地域全体の発展を目的とした矢作川総合開発事業が採択される。昭和46年には矢作川上流に新たな水源として、治水、都市用水、発電、農業用水の多目的ダムである矢作ダムが完成した。
昭和50年からは、明治用水の一部を共用し、西三河工業用水の通水が開始され、明治用水は農業だけでなく、都市の生活を支える新たな「地域の水」として生まれ変わったのである。
急速な工業化の結果、かつて「日本デンマーク」とも称されたこの地の農家は、ほとんどが兼業化した。だが、管水路化やほ場整備事業の実現によって、新しい効率的な農業経営が可能になった。現在では営農組合による受託農業が盛んに行われ、依然として、農業は基幹産業としてこの地を支え続けている。
パイプライン化され、目には見えない流れとなった明治用水。私たちの足元を流れるこの水が農業、工業とともにこの地の経済を支え、地域発展の礎となっていることを忘れてはならないだろう。