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icon日本デンマークの実現


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明治用水完成後の農業の発展は目ざましかった。約2,300haだった水田面積は、明治16年には、倍の約4,300haとなった。以後、毎年150haほどずつ増え続け、明治四十年には、8,000haを超す一大穀倉地帯へと画期的な転身を遂げた。

地域の発展はこれに留まるものではなかった。台地という立地条件のため、秋になり、明治用水の水門が閉ざされると、水田は全て干しあがって畑となる。これを利用し、冬季には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、耕地の高度利用が図られた。昭和六年の碧海郡農作物産額が示しているとおり、生産物は米作を中心に養鶏、養蚕、蔬菜、果樹と多方面に渡り、このような農業のあり方は多角形農業と呼ばれ普及していった。

特に、その推進に大きく貢献したのが山崎延吉である。山崎は、明治34年に新設された安城農林学校(現県立安城農林高等学校)で、設立以来20年間校長を務め、農民たちが学問としてではなく、実地に役立つ技術を学ぶことを目標に尽力した。農村を歩き回っては農事の改良と農民の教育にあたり、農林学校の卒業生たちとともに産業組合を組織し、農作物の共同出荷を行った。「安城梨」「三河スイカ」など農産物のブランド化にもいち早く着手している。

こうした成果が現れ、この地の農業は急速な発展を果たした。当時、理想的な農業国として名を馳せたデンマークの名を冠し、「日本デンマーク」の呼び名がつくほどに、全国の賞賛を集めたのである。最盛期には、農業関係の視察者が次々と訪れ、駅前には旅館、食堂、演芸場、映画館などがズラリと立ち並んだという。


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昭和26年の風景(明治用水管内)。
祭りと思われるが、日本デンマーク時代のにぎわいを感じさせる。

icon開拓の苦難


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さて、「日本デンマーク」の繁栄とともに、その開拓の苦難にもここでは触れておかねばなるまい。この地の農業の歴史は浅い。水が届くようになったとはいえ、もともとは原野。重い黒鍬を振り上げては打ち下ろし、農民たちは朝から晩まで、無限とも思えるほど長い時間を費やし開墾にあたった。特にため池の開墾に至っては、その苦労は想像に難くない。また、農業というのは、原野を切り開いたからといって、すぐに思うような収穫があげられるものでもない。実り豊かな収穫のため、親子何代にもわたって、土を肥やし、土壌を改良した。「嫁にやるなら安城にやるな。年がら年中野良仕事」。開拓時代の安城には、こんな歌すら残っている。

不利な条件への粘り強い挑戦、改良や工夫、こうした開拓の労苦を経て養われた気風こそが、日本のモデル農村として教科書で取り上げられるほどの繁栄を下支えしたことは疑いようもない。



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    碧海郡農作物産額の作物別割合

    昭和6年青木一己「碧海郡の農業と産業組合」より作成
  • 06

    明治用水地域の水田増加の状況

    (地価修正事業誌より)
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