宮崎県:五ヶ瀬川水系

三原原野のイデ(宮崎県高千穂町押方)

取水口に注連縄を張る

 今回の訪問地は、この三原尾野の農業用水路だ。
 案内人はムラの長老のひとり、佐藤三原さん(昭和5年生まれ)である。

 訪ねると三原さんは納屋と化した牛舎の前の山ナシの木の下に座り込み、水路の取水口に張る正月用の注連縄を綯っておられ、綯い終わると軽トラに載せて、これから取水口へ張りに行くのだといわれる。
 お供して山の斜面を縫うように走り、女岳の中腹の渓流に辿り着いた。
 ほとばしる細い流れに小さな井堰が設けてある。
 三原さんは流れに御幣を立て、注連縄を張り、この谷は女岳の腹から流れ出てくる川で、名前は荒瀬川だといわれる。


天孫降臨の伝説をもつ二上山。二上山の女岳の腹から流れる荒瀬川に三原尾野地区の「イデ」の取水口がある。


 井堰の左右に二つの取水口がある。左岸側が三原尾野への水路である。この水路の名称を聞くと、ただ単にイデと呼ばれ、特別な名はないといわれる。
 一般にイデ(井手)といえば井堰、もしくは取水口をイメージするのだが、ここでは農業用水路そのものをイデという。イデには三ケ所の取水口があり、荒瀬川の井堰はそのひとつ。他に谷間の湧水などからも取水される。それぞれの流れが一本のイデに合流すると、山の斜面を横断し、隧道を潜り抜けて、三原尾野の稲作農家17戸、水掛かり総面積7町6反の田を潤す全長6kmの農業用水路となる。


注連縄が張られた三原尾野の取水口、
荒瀬川。



オノエのサミダ

 三原尾野に戻って、キビ焼酎を呑みながら三原さんの話しを聞く。
 かつて三原尾野では炭を焼き、牛を飼い、麻・桑・煙草・シイタケの栽培を行い。稲作は山の小さな湧水か、谷に藁束をひいてその上に石をのせた堰から竹の樋によって導水するサミダ(峡水田)だったといわれる。

農業用水路開削

 今日のイデが計画されたのは昭和6年。施工されたのは10年後の昭和16年。三原尾野のムラ人総出で工事が行われ、天井の低いアナイデ(隧道)を屈んだままの姿勢で掘り進むなど難儀に難儀を重ねて完成したといわれる。
 水路が出来ると三原尾野の農業は一変した。畑作中心のムラから稲作へと移行したのだ。

 オノエを拓き棚田を造ったが、ムラの指導者も働き手も戦争に駆り出されたなかでの開田は、それは大変なものだった。稲作が最も盛んだった戦中、戦後、寝ても覚めても稲のことを考え、12月の二上山の夜神楽でも稲の話しばかりだったといわれる。
 畑が水田に変わる時、オナゴシ(女性)から、畑を全て無くしていいのか、牛は、炭は、野菜は、シイタケはどうするのだといわれ、それで炭も牛も野菜もシイタケも続けられた。三原さんはコップの焼酎をグビッと呑むと、あぁ、あの頃が一番良かったといわれる。


得別当地区の棚田から望む三原尾野地区の棚田。二つの地区を深い谷が隔てている。


変貌するムラ

 しかし、戦後の減反は大ダゲキだった。それでも牛がいたし、まだ炭も焼いていたし、野菜やシイタケをつくっていた。それから道路工事やなにやらの土方仕事に出て賃金稼ぎをしたのだが、子ども達を上の学校にやるには足りなかった。飼育牛の頭数を増やして頑張るしかないと考え、出稼ぎで牛を増やすことを試みたが、男手を失ったムラでは牛を飼育する労働力が不足して、現状を維持することすら難しくなっていった。
 エネルギー革命が家庭から炭を追放し、炭焼きもままならなくなった。すると雑木を伐り払って杉の植林がはじまり、今では杉だらけになってしまったのだといわれる。
 山が杉で被われた時、水路に異変が起きはじめた。杉を伐り出して5~6年もすると伐り株が腐って斜面の土を保持出来なくなってしまうのだ。水路の上も下もいつ土砂を被るかわからん状態になってしもうたといわれる。
 雑木は伐っても枯れずに新たな芽を吹いて成長しはじめるのだが、杉の伐り株は枯れて腐るだけではなく、雨が枯れた根を洗って水溜まりをつくり、伐り株自体が土石流の原因になってしまうこともあるのだ。
 土石流は水路を埋めただけではなかった。斜面もろとも崩落させたのである。昭和39年、その復旧工事が県営事業で行われ、新に380mの隧道が掘られたが、まだ危険な箇所が沢山残っているのだといわれる。
 もっとも、これ以上金をつぎ込んでも、この頃は長男に農業を継げという説得力がなくなったわナといわれる。

水への感謝

 先ほどから、シイタケを持ってきて焼いてくださっていたムラ内の鍛冶屋さんは、奥さんの八重子さんが亡くならして、三原さんも弱気にならしたといわれる。
 三原さんはコップに残った焼酎を呑み干すと、田植え前にハルコウジ(春工事)をします。と、水路掃除の話しをされた。そうして最後に、生活排水などの汚れた水は、水路に流さず山へ戻しますが、百姓は毎日水を汚して生活しとりますなケ。それで、年にいっぺんなっと、谷に注連を張って感謝の気持ちを込めてお参りします。と、いわれるのであった。