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 那須野ヶ原は、栃木県と群馬県のほぼ境目、那珂川と箒川に挟まれた広大な扇状地で、その広さは約4万haあります。中央を、五街道のひとつである奥羽街道が走り、古くから白河へ向かう重要な幹線でした。この地域には江戸末期約140の村があったといいますが、そのほとんどは奥州街道より南側に位置しており、北側一帯は人煙も稀な日本有数の荒野が広がっていました。


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 実朝の父・源頼朝が那須野ヶ原で狩をした時の様子を想像して詠んだものといいます。

この時の狩は関東武士数十万人を動員したと記録にあります。一大壮観であったことが想像されます。

 また、山崎北華の『続・奥の細道』にも、「那須野は聞きしに違はず。(中略)草も長からず、木といふものは木瓜(ぼけ)さへもなし、 炎暑の折など如何にぞや。手に掬(すく)う水もなし」などと描写されています。

 「手に掬う水もなし」。ちょっと信じられないような言い回しですが、事実はその通りだったようです。


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■那須野ヶ原の原野が想像される風景(黒磯市青木)

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■熊川 05
■蛇尾川(さびがわ)

 この地域を流れる2本の川、熊川と蛇尾川(さびがわ)は写真でも分かるように、四季を通してほとんど水が流れない<水無し川>だったのです(大雨の時だけ一時的に川になる)。

 これは砂れき層が堆積した扇状地にはよくあることですが、山地から流れ出た水が平野部に出る時、扇状地の扇頂部で地下に潜ってしまうという現象です。いったん潜った地下水は標高240m付近、扇頂部から15kmほど下流の大田原市の町島(旧奥州街道の少し北)あたりで地表に現れ、再び川となって流下していきます。つまり、奥州街道が地下水の湧出地域となっていたわけです。街道の成立もこうした自然条件によって規定されたものと思えます。奥州街道に南側には、大田原の城下町、幕府の天領地などが入り組んでいました。しかし、街道の北側は荒涼たる原野。

 原野の東端を流れる那珂川は比較的水量の豊かな川ですが、この地域では谷を形成しており、この川から導水するためにはかなり高度な土木技術がいります。一方、西端にある箒川はこの平原が南西に向かって傾斜しているため、この地域では最も低いところを流れていることになります。

 したがって、街道以北は、明治以前までは人が住めず、毎年春になると起こる野火によって一面焦土と化し、渺渺(びょうびょう)たる原野となっていたというわけです。


 この1万haを超すなだらかな原野は、水が引けないというただそれだけの理由で、人も住みつかず、馬草をとる程度の利用しかされてこなかったのです。

 東京の山手線で囲まれたエリアが約6500haですから、1万haという広大さが想像できるかと思われます。

 ちなみに、古い日本語では、<野>は農地化されていない広い土地、<原>は水が無くて農地化できない土地を意味したようです。<那須野ヶ原>とは微妙な地名ですが、おそらく<那須野>はこの地方全体(あるいは街道以南)、<那須野ヶ原>は、街道より北側の原野を指していたのではないかと推察されます。


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