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 しかしながら、商業に就いたものも農業に就いたものも、その多くは経営に破綻し、巷では「士族の商法」などと揶揄されました。

 この間、新政府に対する不満があちこちで噴出し、明治4年には、香川、岡山、兵庫などで暴動が起こり、同6年には大分、岡山でそれぞれ2万人が蜂起、福岡では6万人を超す大規模な暴動が発生しました。

 さらに士族の組織的反乱は、明治7年の佐賀の乱から、明治9年、神風連の乱(熊本県)、秋月の乱(福岡県)、萩の乱(山口県)と拡大し、いよいよ明治10年(1877)、維新の英雄・西郷隆盛による最大かつ最後の反乱、西南の役を迎えます。両軍合わせて約9万人が7ヶ月にわたって交戦を繰り広げ、死傷者は3万人を超すという激戦でした。

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 これらの反乱を勢いづかせたのが、明治9年の廃刀令と家禄の廃止(秩禄処分)です。新政府はこの対策として、<士族授産>を重要施策のひとつとして位置付け、以後、明治23年に打ち切られるまで、積極的な展開を図りました。したがって、厳密な意味での<士族授産>事業とは、明治9年、内務省に授産局が設置されてからの施策を指すことになります。

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