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『続日本紀』(国立国会図書館所蔵)写し

奥羽山脈の西のはずれ、石淵[いしぶち]ダムの上空から、目を東に向けよう。

ここには奥羽山脈の麓から、東方の北上高地まで胆沢[いさわ]平野が茫々と広がり、そのなかを胆沢川が身をくねらせながら流れ、北上川に合流している。


「続日本紀[しょくにほんぎ]」延暦8年(789)の条は、胆沢の地を「水陸万頃[すいりくばんけい]」と記している。「水陸万頃」とは、水と土地(陸)が豊かな(万頃)さまをいう。

この地を初めてみた人々は、「ここには豊かな水と広々とした大地がある。この二つを結びつける用水開発さえ行えば、豊かな生活が実現できる。」──こう考えたに違いない。

胆沢平野の開発は、天水や湧水、あるいは扇状地を切る沢水の利用に始まり、胆沢川からの引水によって本格化した。

これらの事業に功績のあったのは、史上に名を残す指導者であり、またそれに協力した無名の人々の群れである。そしてこれを可能としたのが、すぐれた農業土木技術である。

「水陸万頃」──これは昔も今も変らない胆沢の原風景である。

人々はこの地に生を受け、水を導き、大地を潤し、美しい郷土をつくりあげてきた。

いまここに先人の営みをふりかえり、新しい世代に伝えることができればと思う。


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胆沢平野

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胆沢平野は胆沢川がつくった扇状地である。

この扇状地は一辺の長さが20キロメートルもある日本における最大級の扇状地であるが、単純な扇状地ではない。胆沢川は、上流から大量の砂礫を運んで扇状地をつくる一方、これを浸食し、長い年月の間に上位、中位、下位あわせて6段の河岸段丘を形づくってきた。

胆沢平野の開発のもっとも大きな課題は、一番低いところを流れる胆沢川の水を段丘の高位部にいかに導くかであった。胆沢川からの引水は、一番水の引きやすい下位の段丘面から始まり、近世には中位段丘に及んだ。しかし、中位段丘の高位部から上位段丘にかけて胆沢川の水が届くのは、第二次大戦後のことである。この地帯に今なお残る用水溜池は、水源を天水や湧水に頼っていた時代の名残りである。


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「続日本紀」宝亀7年(776)の条に初めてみえる地名である。

語源はエミシの大酋長のいた「エサパ」説、イ(砂)サワ(沢)という「砂礫の沢」説、イ(接頭語)サワ(沢)による「沢」説などあるが、よくわからない。いずれにせよ、水に恵まれた広大な土地であったため、古くから有力者が住んでいたところであったことに変りはない。

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