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胆沢平野の長い開発史において、その中心を占めてきたのが茂井羅堰と寿安堰の2大用水である。この2つの農業用水が潤す水田地帯は、胆沢平野の美しい散居景観の中枢を成している。


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古代水路跡
(水沢市埋蔵文化財調査センター提供)
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胆沢城跡図面
(水沢市埋蔵文化財団調査センターパンフより)

茂井羅堰の歴史は古い。文書に見えるところでは、元亀年間(1570~72)に北郷茂井羅という女性が用水を開さくしたという言い伝えがあるが、土地に残された事物は、その遥か以前から水田が拓かれていたことを物語っている。


茂井羅堰の末端に近い、北上川のほとりには胆沢城址がある。ここは延暦21年(802)に坂上田村麻呂が築いたとされる大和朝廷の最前線基地である。現在、方八丁[ほうはっちょう]と呼ばれる

この場所からは、堀や船着場などの遺構が発見され、なお発掘中である。周辺からは水路遺跡も見つかり、古いものは2000年前とも言われている。


茂井羅堰の受益地のちょうど真ん中あたりに、角塚古墳[つのづかこふん]という5世紀に築造されたと見られる日本最北の前方後円墳がある。被葬者は不明だが、古墳の様式は水田文化の担い手でもあった勢力との関わりを強く示している。


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角塚古墳

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百姓屋敷分布図

右の図は、「百姓屋敷」と呼ばれた豪農屋敷の分布図である。

現在の散居景観の原型がすでにここにある。江戸時代に編まれた「安永風土記」(安永5年:1776)によれば、当時、茂井羅堰の管内には18ヶ村、用水溜高にして1,724貫の水田があり、そのうちの96パーセントが胆沢川からの用水がかりだったという。


茂井羅堰の歴史は古い。誰が開さくしたかもはっきりしない。ただ、えみしと呼ばれた北方勢力が優位を占めていた時代から、ここには水田があった。それほどに古いのである。



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後藤寿安像

一方、寿安堰の開さくは明らかである。江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。

後藤寿安はキリシタンであった。それゆえに江戸幕府のキリシタン禁制に触れて、事業半ばにして追放の身となった。政宗は寿安の能力と人柄を惜しんで最後まで転宗を勧めたが本人は晩節を曲げなかったとも伝えられる。

しかし、寿安の意志は着実に受け継がれた。千田と遠藤は地形を生かし、難工事を巧みな工夫で乗り切って、胆沢川の水を胆沢平野の中央部一帯に導いた。この大事業によって、それまで小さな沢沿いで不安定な稲作を余儀なくされていた地域が大きく生まれ変わった。


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徳水園(合祀記念碑)

堰の名を寿安堰と言う。寿安はラテン語でJohannes(ヨハネ)、日本で唯一のクリスチャンネームの用水堰である。

3人は郷土の偉人である。春と秋には地元の手による寿安祭が開かれる。当日はキリスト教の神父も参加する。クリスチャンとしての寿安は本国バチカンでも高く評価されているという。

寿安堰の取入れ近くには、茂井羅堰・寿安堰の開さくに関わった人々の徳を偲んで徳水園[とくすいえん]と名付けられた小公園がある。

寿安らの石碑はいまも杉木立ちの中でひっそりと佇んでいる。


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寿安祭

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