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「津軽も、あるいは南部をふくめた青森県ぜんたいが、こんにち考古学者によって縄文時代には、信じがたいほどにゆたかだったと想像されている」。作家司馬遼太郎[しばりょうたろう]は『街道をゆく―北のまほろば』で、古代におけるこの地方の豊かさを「まほ(真秀)ろ場」という最上級の場所を意味する古語を使って表現している。


確かに、三内丸山[さんないまるやま](青森市郊外)で発掘された広大な縄文初中期の遺跡*1は、数十棟に及ぶ高床式の倉庫群、巨大な楼閣[ろうかく]跡など、近畿地方のそれを全部合わせてもかなわないほどスケールが大きく、あるいは亀が岡(木造[きづくり]町)から出土する有名な遮光[しゃこう]土器(縄文後期)の芸術性からみても、この地が今から4000年以上も前から栄え、なおかつ高い文化を持っていたことが明らかになっている。いわば、この地は縄文的ユートピアであったらしい。


さらに、田舎館[いなかだて]村の垂柳[たれやなぎ]遺跡*2からは弥生中期の水田跡が発見され、弘前市の砂沢[すなざわ]遺跡*3からは、それより何百年か古い弥生前期の水田が発掘されるにいたって、「東北には古代稲作(弥生文化)はなかった」という考古学の常識は完全に覆[くつがえ]された。


この頃、まだ関東や東海地方に稲作はそれほど伝播[でんぱ]していない。大和朝廷から中世にいたるまで、夷狄[いてき]の地とされ未開地扱いされてきたこの本州北限の地は、古代、中央よりはるかに進んでいたことになる。


しかし、その後、いつからか津軽は歴史において寡黙[かもく]になる。

金木[かなぎ]町出身の作家太宰治[だざいおさむ]は、昭和の風土記ともいえる名作『津軽』の中でこう嘆いている。「私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった」。神武[じんむ]天皇以来現代まで、安部比羅夫[あべのひらふ]の蝦夷[えぞ]討伐*4のところにただ一箇所、「本当にもう、それっきり」であると。

そして、大阪夏の陣から昭和15年までにいたる「津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表」を文庫版4頁にわたって記載し、その5年に1度の割で襲[おそ]われる「酸鼻[さんび]の地獄絵」に「わけのわからぬふんぬ憤怒[ふんぬ]さえ感ぜられ」たと記している。


縄文的ユートピアとは、文明としては素朴であっても、災害も戦いもなく、天から与えられた多くの恵みを人が享受[きょうじゅ]できる桃源郷[とうげんきょう]というイメージが可能であろう。

対して、弥生(稲作文化)的ユートピアというものがあるとすれば、それはおそらく天候や地形・地質をコントロールできる例えば超巨大ドームの中、あるいはバイオテクノロジーの革命的進歩、いずれにせよ科学技術の進展の果てにある世界ではなかろうか。


縄文的ユートピアが大自然の豊かさを背景にしているのに対して、弥生的世界は、自然の営みや社会を管理する方向性を強く持っている。


史[ふみ]として残された現代までの日本の歴史は、この弥生的ユートピアとでもいうものをはるか遠くに追い求める闘いの記録であったといえなくもない。


かつては「北のまほろば」であったという津軽は、いかなる天変地異の故か、その後、弥生的ユートピアからは程遠い、文字どおり辺境[へんきょう]の地としての歴史を刻んできた。


約7万ヘクタール*5という全国でも有数の広さを持つ津軽平野を所領した津軽藩の石高はわずか4万5千石*6。草深い山国の小大名程度に過ぎない。


加えて、毎年幾度となく襲われる洪水の災い、そして、5年に1度の、親や子の人肉まで食したという「酸鼻[さんび]の地獄絵」。


司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中で、これを津軽藩の「コメ一辺倒政策の悲劇」と指摘し、「コメに偏執[へんしゅう]し、相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高30万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた」と述べている。そうせず、農業に加えて林業や漁業、狩猟、牧畜、交易を盛んにしていれば、「古代以来の豊かな自然を享受[きょうじゅ]するくらし」が続いていたに違いないと。


氏の指摘はともかく、戦前まで沖縄を除く46都道府県中45位であった青森県の米の反[たん]当り収穫量は、戦後、徐々に順位を上げ、昭和45年には第3位。そして同53年、あろうことか何万人という餓死者[がししゃ]を出してきたこのケガヅ(飢饉[ききん])の国は、米の生産高(反当り)で、遂に全国第1位の座*7を獲得したのである。


苦節2000年とでもいうべきか。津軽平野は、弥生的世界においても、全国トップクラスの「真秀(まほ)ろ場」となったことになる。


しかし、おそらく万人が認めるように、そして、誰よりも津軽人が実感しているように、それが終着駅ではなかろう。弥生的なユートピアとなったわけでもなかろう。


歴史はこの先も続く。とすれば、どんな世界、どんなユートピアを今後、私たちは目指せば良いのか。


とりあえず、私たちの世代。そして、この津軽。何を遺[のこ]してやるべきであろう、この地で生まれる子らに。


何を語り継[つ]ぐべきであろう、彼らがつややかな誇りを持ってこの大地で生きるために。


今一度、古い時代の記録をたどってみようではないか。


いつの時代か、真に、この地が「北のまほろば」となるために。




※1

約35haという日本最大の縄文集落。4万箱以上の遺物が発見され、計画的な土地利用、高度な建築技術などこれまでの縄文社会の概念を覆した


※2

昭和56年に出土した弥生中期の水田跡。籾痕のついた土器や炭化米も、さらに縄文人の足跡が発見されている。


※3

東日本最古とされる紀元前一世紀頃(弥生前期)の水田跡。約40ha。


※4

中大兄皇子の命で658年から行われた安部比羅夫の東北遠征。


※5

水田面積は約4万ha。約3万haが畑やりんご園など。


※6

実際の所領は三万石で、あと秀吉の直轄地一万五千石の管理を命ぜられたらしい。後に津軽藩は十万石へと格上げされるが、これは蝦夷地警護の功による。


※7

現在(平成十一年時点)も、反当り生産高は全国三位。リンゴ、長いも、にんにくは全国一位。


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