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01
古十三潟の推定線は、中谷治宇二郎による

歴史を振り返る際に欠かせないのは、その地域の山河、すなわち地形である。おそらく、縄文時代から現代にいたるまでほとんど変化のない唯一のものはといえば、右の図に示される岩木川水系の流域[りゅういき]であろう。

右図の緑色の線がその流域を示す境である。この線に囲まれたエリアに降る雨は、すべて北へ北へと流れ十三湖[じゅうさんこ]に集まる。

つまり、完全なる袋[ふくろ]状となっているのである(右隣の青森平野と比べると、その特徴が良くわかる)。


古い絵図には、藤崎[ふじさき]町以北が広大な十三湖として描かれている。標高7メートルの等高線をたどると、図の破線のようになり、遺跡[いせき]などの分布からみても、大昔の十三湖はこれくらいの広さであったと推定されている。


02
亀ヶ岡遺跡より出土した遮光土器

縄文人の住む場所として、これ以上の適地はなかったと思われる。四方を山で囲まれ、目の前は静かな海。この海域は現在でも世界有数の漁場である。文字どおり山の幸、海の幸。北方民族の居住地としては最南端に位置する「南のまほろば」であったに相違ない。

そして、広大な天然の良港。糸魚川[いといがわ]産のヒスイ、北海動産の黒曜石[こくようせき]が三内丸山遺跡から発掘されたことからも、すでにこの当時、かなりの遠隔地まで交易が広がっていたことが判明している。

弥生時代に入り稲作が伝播[でんぱ]しても、この地はそれに頼ることなく、豊かな天然の恵みと海運を利用した交易で充分にやっていけた。


時代としての意味を取っ払ってしまい、わしづかみに表現すれば、弥生型社会は稲作による富の蓄積[ちくせき]、縄文型社会は狩猟[しゅりょう]と交易を中心とした経済という分け方が可能である。

その図式でいえば、津軽は、日本が弥生時代を経て、古墳、飛鳥、奈良、平安の各王朝時代を形成してもなお、狩猟・交易という縄文型社会を維持していたことになる(正しくは、この王朝に属さなかった)。

安部比羅夫[あべのひらふ]の蝦夷[えぞ]討伐(659年前後)、坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]の東北遠征(800年前後)等の記録にみられるように、この地は、弥生的王朝からみれば、遠く隔[へだ]てた異国であり、征服すべき夷狄[いてき]の国であった。


この縄文型社会の繁栄は、鎌倉時代になってピークを迎える。

十三湊[とさみなと]を根拠地とした十三氏[じゅうさんし]、さらにこれを滅ぼし、〈十三湊日之本[ひのもと]将軍〉と称して市浦[しうら]に巨大な城を築いて勢力を誇った安東[あんどう]水軍。

「城郭は方八十町柵[さく]を築き回し、内は面々要害を構うること莫大なり。西は滄海漫々[そうかいまんまん]として夷船[いせん]群集し、艫先[ろさき]を並べ、舳[へさき]を整え湊[みなと]は市[いち]をなす。新町は棟を並べ軒を接し、数千万家を造り、・・・」(『十三往来』)。

いささか誇張があるにしても、当時の繁栄ぶりがうかがえる。


03
十三湊の都市計画
資料:市浦村役場のパンフレットより転載

大津波で滅んだとも伝えられてきた十三湊は、最近、発掘調査が行われ、本格的な都市計画を伴った中世都市であったことも分かってきている。


さて、この平野の流域が極端な袋状になっていることはすでに述べた。雨水も集るが、山からの大量の土砂もまた河川に運ばれ、十三湖を目指して堆積[たいせき]する。長い時代を経て、十三湖は徐々に徐々に、狭くなっていった。それに連動するかのように、縄文型社会もまた徐々に北へ追いやられ、縮小していったはずである。


中世、三津七湊[さんしんしちそう]のひとつに数えられた十三湊[とさみなと]は、大津波(1340年)の後に復興されたらしいが、安東水軍も南から来た南部[なんぶ]氏との抗争に敗れ、蝦夷の地へと逃れていった。そして、弥生型社会が完成される江戸初期、鰺ヶ沢港[あじがさわ]が整備されるに及んで、十三湊は衰退していくことになる。


ところが、別の意味で、この十三湊は津軽平野全体を揺るがしかねない要[かなめ]の地となっていったのである。


それは、この袋状の流域と津軽平野の母ともいえる一級河川・岩木川の特殊性に由来する。


図1をご覧いただきたい。これは諸外国の河川に比べて、いかにわが国の河川勾配が急であるかを端的[たんてき]に示したグラフである。

そして、図2。・・・説明は不要であろう。


白神[しらかみ]山地から滝のごとく流れ出た岩木川の水は、平野部に入るとほとんど水平となる。平均勾配は約5000分の1。最下流部では20000分の1。


さらに、この袋状の平野は、その袋の出口が異様に狭[せま]い。


有り得べからざることだが、もし、この出口が塞[ふさ]がってしまえばどうなるであろう。

その有り得べからざることが、この平野では、昭和の時代まで、毎年何回となく起こり続けたのである。


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