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国内無類の輪中地帯[水との死闘]
国内無類の輪中地帯[水との死闘]
岐阜県博物館『輪中と治水』より転載。撮影は河合孝氏
水屋建築。水害から家屋を守るため高い石垣を築いている。輪中地域の代表的な建築。もっとも、こうした家を持っていたのは豪農クラスである。一般の家では避難用の舟を軒先に吊るしていた。(岐阜県博物館『輪中と治水』より転載。撮影は河合孝氏)
岐阜県博物館『輪中と治水』より転載。撮影は河合孝氏
輪中地域独特の景観である「堀上げ田」と「潰れ田」。湿地帯では地下水位が高いため、沼の土を短冊形に掘り、田へ積み上げた。積み上げられた田を「堀上げ田」、掘ったクリーク状の池沼は「潰れ田」と呼ばれていた。(岐阜県博物館『輪中と治水』より転載。撮影は河合孝氏)
 美濃側の堤防は、尾張側より約1m低くせよ。この差別的治水策を実証する資料の類は見つかっていません。
 しかし、木曽川右岸・左岸の破堤回数を示す表が木曽三川をめぐる状況のすべてを物語っているのではないでしょうか。

 前述した地殻変動のせいで、この三川の川床[かしょう]は木曽川が最も高く、次いで長良川、揖斐[いび]川と低くなっています。
 木曽の流れは、南進するあたりからすでに長良川、揖斐川と入り乱れて、それぞれの支派流が錯綜[さくそう]し、あたかも荒いレース網目のような模様を呈しています(前頁図参照)。
 そして、これらの川に囲まれた島とも中州[なかす]ともつかぬ土地がいわゆる輪中[わじゅう]地帯。明治の頃にはその数80余り、面積にして約1800km2、今の大阪府に匹敵する広さでした。
 各々の輪中は周りを堤防で取り囲み、それぞれの島の水防・水利共同体を形成していました。このような例は、国内外を問わずほとんど類を見ないといわれています。
 輪中[わじゅう]が形成されたのは江戸時代初期、当然のことながら、「御囲堤」の後、急増しています。いわば「ミニ御囲堤」ということになります。
 そして、この輪中地域の開発面積が増えれば増えるほど遊水地や河道は狭められ、さらに水害が増すといった悪循環を繰り返していくことになります。また、山からの土砂が年々川道に堆積し、次第に輪中内より川床の方が高くなっていったのです。
 輪中内の農民は絶えず悪水(田の排水)に悩まされ続けました。悪水の停滞によって作物は根腐れを起こし、せっかく開発した新田も耕作不能な低湿地と化していきます。
 そして、いったん破堤すれば、言うまでもなく、輪中の中は生地獄[いきじごく]と化しました。
 その生地獄が、右表によれば、御囲堤ができてからの300年間(1600〜1900)に298回は繰り返されたことになります。

木曽川右岸・左岸の破堤回数を見る
 
 
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