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01
木津用水の取水口。(写真提供:水土里ネット木津用水)

02
入鹿池全景。池の左側が堰堤。その上が明治村。
上方は犬山市と木曽川。
(写真:『入鹿池史』より転載)
03
木津用水取水口付近の修復工事風景。
(写真提供:水土里ネット木津用水)
04
昭和初期の木津用水。五条川との分岐地点か。
(写真提供:水土里ネット木津用水)

尾張藩の豊かさを決定づけた要因として、もうひとつは新田開発があげられるでしょう。

江戸時代の初期には、どこの藩も新田開発に力を入れていますが、尾張藩の新田石高[しんでんこくだか]は丘陵地の開発と海面干拓をあわせて実に約30万石。大藩の石高に匹敵する途方もない量です。

宮田用水の整備によって、領内の水利網は一応の完成をみましたが、まだまだ尾張平野東部の小牧原一帯には広大な未開の洪積[こうせき]台地が残されていました。

その口火を切ったのが入鹿[いるか]池の築造による1000町歩余りの開田[かいでん]です。

提唱したのは江崎善左衛門[ぜんざえもん]など地元の郷士(戦国浪人)六人衆。彼らは入鹿村の地形に注目し、四国の満濃[まんのう]池に匹敵する巨大なため池の築造を計画し、藩に開発願いを出します。藩祖・義直は鷹[たか]狩にことよせてこれを検分し、許可すると同時に藩の開拓事業として強力な援助を与えることになりました。

しかし、工事は杁[いり]とは比較にならないほど難しく、とりわけ「棚[たな]築き」と呼ばれる最終工事の締め切りに苦労し、やむなく河内[かわち]の国から堤防造りの巧者・甚九郎を呼び寄せて工事に当たらせたそうです。

余談ですが、その工法は、堤防の締め切り場所をできるだけ狭め、そこへ松の木でできた仮橋を渡して油を注ぎ、さらに松葉や枯れ枝を敷いた上に大量の土を盛り上げ、最後に橋に火をつけるというもの。橋が燃え落ちると同時に、その上の土盛も落下し、締め切りは完了するという仕組みです。

堤の長さは約180m、高さ約26m。甚九郎の功を称えて「河内屋堤」とも呼ばれていました。

入鹿[いるか]池は明治の初期に大決壊を起こしましたが、現在も現役であり、農業用ため池としては、満濃池にほぼ匹敵する日本第二位の貯水量を誇っています。


入鹿池によりこの地域の開発が進み、この同じ六人衆は今度は、木曽川からの取水を計画します。

犬山の東・木津[こっつ]村にて木曽川堤に杁を築き、幅3.6m、長さ11kmの大用水・木津用水(1648年)の開削です。この用水による当時の新田開発高は4万6千石余りと記されています。

さらに彼らは1664年、この木津用水を途中で分水し、東方面の台地を潤す延長約15kmの新木津用水を開削します。新田高は8600余石。

六人衆の事績には目を見張るものがありますが、『木津用水史』では、こんな興味深い考察も見られます。これらの新田開発は、すべて義直を中心とする藩の構想であったが、当時の幕府の隠密[おんみつ]政策を慮[おもんはか]って、民衆の主導になる事業としたというものです。

同用水史は、土佐藩を例にあげ、彼らと同様の功績を上げた家老・野中兼山[のなかけんざん]すら幽閉[ゆうへい]せざるをえなかった土佐藩の悲劇を述べています。確かに当時は、城を築けば大工の棟梁[とうりょう]を斬り、治水土木の責任者には詰腹[つめばら]を切らせて秘密の漏洩[ろうえい]を防いだ時代でした。

六人衆は当時から開拓の功労者として、六本の石柱となって入鹿池のほとりにたたずんでいます。


さて、尾張藩の新田開発の最たるものは、なんと言っても海面干拓でしょう。

名古屋市の熱田[あつた]区、港区、中川区、南区の一部、さらに弥富[やとみ]町、十四山[じゅうしやま]村、飛島[とびしま]村、三重県の木曽岬町といった広大な区域は、すべて江戸時代の干拓によって生まれた大地です。その面積は約5000ha(児島湖の干拓で有名な備中[びっちゅう]池田藩の干拓面積に匹敵)。

藩直営の熱田新田(500ha )では、用水として名古屋市内を流れる庄内[しょうない]川から引いてきています。しかし、庄内川は流域面積が狭く用水量が不足するため、木津用水の流末を庄内川に入れることを狙って計画されています。

このように、庄内川以東の干拓は、木津用水を通じて木曽川の水を渇水の補給水として確保しています。また、庄内川以西の干拓地では、宮田用水系の流末と関連した用水を使用しています。

いずれにせよ、名古屋港近くの干拓地が、はるか数十kmも北にある宮田・木津の恩恵を受けているわけです。これはこの地域の水利ネットワークがいかに緻密[ちみつ]であったかを物語っていますが、同時に、尾張は木曽川の恩恵を余すところなく享受[きょうじゅ]してきた地域であったともいえるでしょう。


一方、木曽川の右岸、つまり美濃の輪中地帯では、尾張とは全く対照的な歴史を歩んできました。

一本の川の右岸と左岸でこれほど歴史に違いのある地域は、他のどこを探しても見当たらないのではないでしょうか。


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