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水利の大再編[工業化社会との軋轢]
水利の大再編[工業化社会との軋轢] 美濃側の決起

 

 「時あたかもまれに見る全国的大旱魃[かんばつ]に際会[さいかい]し、(中略)営利会社は重ね重ね理をつくしての懇請[こんせい]かつ協約を無視して、突如新設ダムを締め切り、以来四昼夜にわたり、ほしいままに断水をあえてし、濃尾平野百万石の美田を涸渇[こかつ]せしめ、独り十数億立方尺[りっぽうじゃく]の水をろう断する破天候[はてんこう]の暴挙を敢行[かんこう]したのである」(『宮田用水史』)。
 大正13年8月、木曽川に全国で最初のダム式発電所(大井発電所)が完成し、同発電所は、同月16日から木曽川の流れを止め、ダムの貯水を行ったのです。
これが工業社会との水をめぐる軋轢[あつれき]の始まりでした。

 小牧[こまき]あたりの台地では昔から桑園が広く分布し、尾西[びさい]地方は日本有数の綿作地帯でした。これを利用した織物業は、尾張のいわば伝統的産業であり、大正から昭和に入ると、一宮を中心とする毛織物業は全国生産の4割を占めるまでに成長し、愛知は一大繊維織王国を築くことになります。
 工業化は、当然のことながら電力開発を伴ないます。木曽川の豊富な水量を狙って発電ダムの建設ラッシュが始まりました。 
 そのために木曽川の水位は、毎日4、50cmも変化し、農業用水の取水に甚だしい支障を来たすようになったのです。加えて、上流からの土砂の流出が止まり、川床はどんどん低下していきます。各用水とも、取水口や導水路の修理に莫大な労力と出費を強要されました。
 農業と工業の川をめぐる深刻な対立は次第に激しくなり、その調整には数十年を費やしています。
 飛騨川と木曽川が合流する地点には、均等放流を図る今渡[いまわたり]調整池(昭和14年)も建設されましたが、満州事変から太平洋戦争へと戦局が拡大するにつれ、電力は戦力として、この調整池すら中京財界が発電を兼ねさせ、均等放流は有名無実となってしまいました。
   
 この問題を解決するためには、数百年におよぶ木曽川水利の再編と近代化が不可欠でした。
 昭和26年、国は木曽川の総合開発の一環として、犬山の地に近代的施設を持った頭首工を建設し、宮田、木津、羽島、さらに下流の佐屋川[さやがわ]用水の各取水口を統合する大規模な計画を立てました。
 しかし、300年にわたってお互いに敵視してきた用水です。宮田用水は自費で取水口変更の大工事を行ったばかりであり、佐屋川用水はあまりにも導水路が長くなりすぎ、また、残り水しかもらえないという理由で撤退[てったい]。国の再三再四の説得にようやく三用水の合意がまとまったのは昭和29年のことでした。
 そして、同32年、犬山頭首工[とうしゅこう]の建設と各幹線水路(総延長43km)の改修を図る大事業・国営濃尾用水農業水利事業がスタートしました(完成は同42年)。
 ここに至って、ようやく濃尾平野は、名実ともに「御囲堤」の呪縛[じゅばく]から解放されたことになります。

 一方、この濃尾用水事業と平行して、木曽川ではもうひとつの超大型プロジェクトが進行していました。愛知用水です。
 木曽川から山を越えて延々112kmの水路を引き、知多半島の先端まで水を引く。日本が初めて世界銀行からの融資を受け、アメリカ人技術者の指導のもとに公団事業として行った大事業でした。
 木曽川の水が他の流域へ流れる ――― これも歴史始まって以来のことであり、下流域の農民にとっては忌々[ゆゆ]しき事態でした。 
 さらに尾張の干拓地では、186km2におよぶ広大な地域で1mもの地盤沈下が発生するという深刻な事態が発生していたのです。工業化の進展と都市化による過剰な地下水(木曽川の涵養[かんよう]水)の汲み上げが原因でした。 
 人間社会の変貌は川の流れを変え、川の流れはまた、歴史の流れを変える。濃尾平野と木曽川は、まさに表裏一体であることを教えてくれます。

© Product/Geoscience Agency/ARTBANK/image(承認番号 平9総史 第53号より一部転載)


 
 
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