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icon馬伏塚城の謎


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馬伏塚城跡

馬伏塚城(袋井市浅名)は徳川家康が武田軍の高天神城(掛川市下土方)を攻める際に、岡崎城、横須賀城などとともに重要な役目を果たした城です。

戦国時代は山城が普通であり、高天神城も130mを超える険しい山の上に築かれています。しかし、岡崎城、横須賀城とも標高2、30mの平城、馬伏塚城跡にいたっては10m程度の小さな丘に過ぎません。

どうして、このような平坦な地に城が築かれたのでしょうか。

その訳は、6000年前のこの平野の地形に由来します。縄文時代には海面が今より5メートル程高く、平野のほぼ全域、掛川市あたりまでが海の底でした。そして弥生時代になると徐々に海面が下がり、陸地は広がります。

ところが、海岸近くに川からの土砂が積もるなどして砂丘ができると、平野のくぼんだ部分は沼や湖として残されてしまいます(潟湖)。

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    図1:奈良時代の地形の想像図
    (参考:浅羽郷土資料館・近藤記念館のパネル)
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    図2:1686年<江戸時代>に描かれた古図

図1は奈良時代の地形の推定図ですが、驚くべきことに、江戸時代中期の古図にもほぼ同じ潟湖が描かれています(図2)。旧浅羽町には、江戸時代中期まで広大な潟湖が残っていたのです。

つまり、馬伏塚城、岡崎城、横須賀城とも周辺は湖に取り囲まれており、充分に城の役割を果たしていたというわけなのです。


icon極端な低平地


海が残るくらいですからこの平野は極めて平坦です(正確に言えば、すり鉢状に凹んでいる)。雨が降るたび、川は流れを変え、濁流となって平野のあちこちを乱流していたものと思われます。

ちなみに袋井市に入ってからの原野谷川の勾配は約1500分の1*。1.5kmくだってようやく1m下がるという緩やかさです。

図1の原野谷川と太田川は現在の流路とは異なっていますが、両河川とも土地が平らであるゆえに著しく蛇行していたのです。

宝永地震(1707年)や安政東海地震(1854年)で地盤が隆起し、潟湖はようやく姿を消しますが(磐田駅南の「大池」は現存)、地形そのものは太古のままであり、昔水域であったところは今も海抜0~1mのままなのです。

こういう地形の大地に大雨が降るとどうなるでしょうか。言うまでもなく水浸しです。普段でも田の悪水(排水)に悩まされてきました。

今之浦湖の跡地(磐田市)は「十年一作」(10年に一度しか収穫できない)と言われるほどの劣悪な湿田でした。あまりのひどさに、六貫野という村は六貫文をつけて土地を与えたのが由来だそうです。

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江戸末期、赤貧の極みにあった3つの村を詠んだ唄です。花筏とは花が筏のように川面に浮き流されること。少しの雨でも田植え前の苗が流されたり、洪水で収穫近い稲がやられたりすることも度々でした。

磐南平野の下流は、ほぼ全域が実に昭和時代まで洪水や田の悪水に悩まされ続けてきたのです。


icon致命的な水不足


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現在の磐南平野

一方、洪水や悪水と矛盾するようですが、それ以上に磐南平野は水不足に苦しんできた地域でもあったのです。

これは太田川や原野谷川(ともに二級河川)の水量の少なさに起因します。通常、水田が川から安定した流量を得るためにはその水田面積の10~20倍程度の流域面積が必要だとされています。

太田川水系(原野谷川含む)の水を引いていた水田の総面積は約1万5000ha。対して同水系の流域面積は約4万9000ha。わずか3.3倍に過ぎません。

村々は川から次々に水路を引いて、競うように水田を増やします。水路は増えに増え、江戸時代の後半には30ヶ所の取り入れ口がひしめき合うという事態にいたるのです。水争いも凄まじく、この地方にはおびただしい記録が残っており、江戸での裁判になった例もたくさんあります。少ない水を求めて村同士が争いあう。この水地獄とも言うべき深刻な事態は数百年も続いたのです。

極端な低平地と川の水量の少なさ。この2つが磐南平野の地形的な宿命でした。


icon県下一の水田王国


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さて、現在の袋井市、磐田市は下の表が示すように、静岡県を代表する穀倉地帯です(周智郡森町も水田率50.2%)。

まさに奇跡の進展ぶりです。

いったいどうやって、先人たちはこの地形的宿命を克服してきたのでしょうか。

ここにいたるには人と大地との凄まじい闘い、何世紀にも及ぶ壮大なドラマがあったのです。


 *袋井市愛野地点における原野谷川の標高は約9m。同地点から河口までの距離は約13,900m。したがって勾配は約1540分の1。




 ※ページ上部イメージ写真 : 1686年<江戸時代>に描かれた古図 
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