a a
title

icon悪夢からの再起


社山疏水は悲惨な結果に終わりましたが、唯一の成果は神田取水口の完成によって寺谷用水の用水量が安定したことでした。

暗然たる気分の覚めやらぬ明治26年、この平野は未曾有の干ばつに襲われます。収穫皆無という村が続出。

地元の必死の要請を受け、県は再び測量に着手。しかし総工費は31万2000円という巨額にのぼります。国の直営事業・安積疏水の総工事費が約40万円ですから地方でまかなえる額ではありません。

それでも諦めきれない人々は数年後にも県に調査を依頼。工事費はインフレによって実に50万円にまで跳ね上がります。


icon明治の大洪水


01
明治44年8月の豪雨による
東海道本線崩落(井通村)
出典:『磐田の記録写真 第二集 磐田の産業』

さらにこの地方を決定的に打ちのめしたのは明治43年、44年と続いた古今未曾有の大水害でした。世に言う関東大水害(死者2700余名)。

43年の洪水では、堤防決壊210ヶ所、十数の町村が濁流に飲まれ、翌年の豪雨では破堤730ヶ所、広大な流域一帯が一面の泥沼と化し、人々を恐怖と絶望のどん底に落します。

これを期に行政の事業は一気に河川改修へと転換して行きます。

しかし、利水と治水は矛盾するのが常。川から水を引きやすくすれば堤防は弱くなり、堤防を頑強にすれば取水が困難になる。河川改修の結果、渇水が起こりやすくなり、河床も1mほど低下、各地区では取水に著しく支障をきたすようになったのです。


icon寺谷用水の苦悩


社山疏水の最大課題はその巨額すぎる工事費でした。しかし、この頃、水力発電の水を用水に使うという案が浮上します。これなら工事費も分担が可能です。財界からも構想が立ち上がりますが、やはり経費の問題が立ちはだかり、夢は、はかなく費えてしまいます。

一方、一生を治水に捧げた天竜の巨星・金原明善の献身的事業などにより天竜川の河川改修が飛躍的に進みます。それで困ったのが寺谷用水。川の流身が移動し、神田取水口の取水量が不安定になったのです。このため毎年のように水の確保に苦しめられるようになります。


icon執念の再出発


02
阿蔵取水口

悲壮な決意を胸に秘め、大橋亦兵衛らの県会議員が中心となり寺谷用水と旧社山疏水地区の同盟会を結成します。これには浅羽の用排水改良事業(用水改良とポンプ灌漑)が大きな刺激となりました。総費用の2分の1が国庫補助の対象となったのです(大正15年完成)。

旧社山疏水地区も水利組合を結成。最も困難な利害調整を行なう主事には人望、胆力とも抜きん出た江塚勝馬が迎えられます。いよいよ県議会にて磐田用水幹線改良事業が可決。昭和4年の出発でした。

最初の難関は寺谷用水との協議でした。課題は費用の分担率など。協議は毎回明け方近くまで続き、時に席を蹴るなど激しく決裂。7回目にしてようやく打開策が締結します。

すでに用排水改良を終えた浅羽に参加を強いるのも酷な話。また用水に不足はなかった三川地区も不参加を固辞して譲らず。その他数々の難問を乗り越えて着工式を迎えたのは出発から4年後の昭和8年。世の中が満州事変、国際連盟脱退などでキナ臭くなっていた時代です。


icon次々と立ちはだかる戦時下の苦難


03
農業増産報国隊の工事

阿蔵(現浜松市天竜区)に取水口を建設、やがて因縁の社山隧道も完成。残るは長大な幹線水路網の開削です。

国庫補助も決まり、いよいよ軌道に乗るかと思えた矢先、日本は太平洋戦争に突入。大不況に加え資材不足、物価高騰。工事はまったく停滞という最悪の事態を迎えます。

唯一の打開策は事業を農地開発営団*1に移管することでした。関係者は猛烈な攻勢が実ってようやく許可が下りたものの地元負担金は18万2000円。とうてい払える額ではなかったのです。

この絶体絶命の窮地を救ったのが故金原明善翁の金原治山治水財団でした。しかも全額寄付という今日では考えられない義挙。

さらに最後の苦難が立ちはだかります。戦局は悪化の一途をたどり、いよいよ資材、労働力の確保が尽きてきたのです。

しかし、農商務省の竹山祐太郎(後の静岡県知事。国営天竜川農業水利事業に尽力)の計らいで、秋田、新潟他、総勢2,576名の農業増産報国隊*2が10日間で8キロの幹線水路を掘りぬいたのです。


icon涙の通水式


04
天竜川から初めて通水された用水(昭和19年)

「来た、来たー、天竜の水が来たーっ!」昭和19年7月、遂に磐田用水は完成。感動の通水式を迎えます。

式典では金原財団の鈴木信一理事長が小瓶を取り出し、天竜の水を入れます。「この水を金原翁の墓前に捧げ、今日の磐田用水通水の成功を報告したい」。参加者全員が感涙にむせんだ一瞬でした。


あらゆる困難に耐え抜いて地元をまとめてきた磐田用水東部水利組合主事・江塚勝馬。文人でもあった彼は石碑に一句刻んでいます。

05

「金は出したが水はコンコン」と嘲られながらこの世を去った明治の先人たちへの、あらん限りの感謝を込めた返歌でした。

06




 *1
 農地開発営団……戦時下の食糧増産を目的に創られた特殊法人。

 *2
 農業増産報国隊……食糧増産のため、農村の18~25歳までの青少年を部隊に編成し、耕作放棄地などにあたらせた組織。

 ※ページ上部イメージ写真 : 農業増産報国隊の工事
back-page bar next-page