では平野の上流部はどうだったのでしょうか。
太田川、原野谷川周辺には1300年前の条里制区画がつい近代まで残っていました。
当時は条件のいい水田だけが選ばれました。水路を造る技術が未熟だったため、洪水の起こりやすい大きな川の周辺を避け、小さな川の近くの土地が選ばれたのです。
ところがこうした古代に優良であった水田地帯は、全国どこでも後になると水不足に悩まされるようになります。
人口が増えると水田も増えてゆき、小さな川では田に引く水量が足りなくなり、水争いが頻発するようになるのです。
平安時代も後半になると荘園開発が盛んになってきます。全国的に見れば新田開発が盛んになった時代ですが、遠江では、右のグラフのように水田面積は減っています。
川の水量の限界や、洪水などで農地が流されてしまったことも影響しているのでしょう。
水不足や水害の直接的な記録はなくても、数字は正直にこの地の開発の難しさを物語っています。
■ 大井用水
慶長年間(1600年前後)開削。十八ヶ村。428町歩を潤す。
■ 仲井用水
1673年頃の開削。五ヶ村、85町歩を潤す。
■ 山名用水
1688年開削との伝え(井塚尊)。八ヶ村、278町を潤す。
■ 諸井用水
開削年は不明。上浅羽一帯の555町歩を潤す。
■ 富里用水
延宝年間(1600年代後半)の開削。西浅羽の520町歩を潤す。
左、図4は、この地における明治の頃の取水地点を示したものです。
通常、磐南のように平坦で広い平野になると藩の事業などによって大用水網が築かれます。北陸の越前藩は九頭竜川に8ヶ所の堰を設け、32万石の大藩を維持してきました。また、尾張藩は木曽川から3ヶ所で取水して62万石の広大な平野を潤していました。日本一広大な関東平野も基本的には葛西用水と見沼代用水の2本だけです。
しかし、この地方の用水はほとんどが簡単な圦樋ばかり。しかも数本の小河川から実に30ヶ所で水を分かち合ってきたのです。
大規模な水利開発が行われなかった理由としては、領地が天領、旗本領、地元の大名領と入り乱れていたことが挙げられます。
しかし何と言っても、大用水網を造るには川の水が少なすぎ、土地が平ら(あるいは凹み)すぎていたことが原因でしょう。
大井、仲井、山名といった比較的大きな用水でも水争いが多く、おびただしい記録が残っています。
また浅羽地区でも、闇夜に上流下流とも竹槍で武装した農民数百名が向かい合うなど、水争いは毎年のように起きています。奉行所の評定には十数年を費やした争いも少なくありません。
この事態は明治になってからでも一向に進展しません。中井用水組合五ヶ村では明治年間、鍬、鎌、竹槍などを手にした農民が結束して上流の村を襲い、警官が動員されるということもたびたび発生しました。日照りが続けば大勢で川に土俵を入れたり、取水口に嵩上げの板を設置したりします。
大雨ともなれば夜中でも、豪雨の中で川に飛び込んで引き上げるという命がけの作業が繰り返されてきたのです。
もはやこうした大地や自然による束縛、あるいは幕藩体制という制度の矛盾は限界を超えていたのでしょう。その矛盾の解決に国をあげて挑んだのが明治という時代でした。
幕末から明治維新にかけて、日本のあちこちでマグマのような時代のエネルギーが噴出します。
そしてここ袋井は、沼地とも湿田とも定かならぬ劣悪な農村から、あろうことか日本中の農村の手本となり、国の農地近代化の先駆けとなるという並外れた業績を成し遂げた男を生むことになるのです。
大井、仲井、山名といった比較的大きな用水でも水争いが多く、おびただしい記録が残っています。
また浅羽地区でも、闇夜に上流下流とも竹槍で武装した農民数百名が向かい合うなど、水争いは毎年のように起きています。奉行所の評定には十数年を費やした争いも少なくありません。
この事態は明治になってからでも一向に進展しません。中井用水組合五ヶ村では明治年間、鍬、鎌、竹槍などを手にした農民が結束して上流の村を襲い、警官が動員されるということもたびたび発生しました。日照りが続けば大勢で川に土俵を入れたり、取水口に嵩上げの板を設置したりします。
大雨ともなれば夜中でも、豪雨の中で川に飛び込んで引き上げるという命がけの作業が繰り返されてきたのです。
もはやこうした大地や自然による束縛、あるいは幕藩体制という制度の矛盾は限界を超えていたのでしょう。その矛盾の解決に国をあげて挑んだのが明治という時代でした。
幕末から明治維新にかけて、日本のあちこちでマグマのような時代のエネルギーが噴出します。
そしてここ袋井は、沼地とも湿田とも定かならぬ劣悪な農村から、あろうことか日本中の農村の手本となり、国の農地近代化の先駆けとなるという並外れた業績を成し遂げた男を生むことになるのです。