天保の大飢饉が始まる2年前(1831年)、ある人物がこの地域(中泉代官所)に赴任します。名は犬塚祐一郎。現代風の名前ですが、幕府の役人であり、役目は天竜川や仿僧川の工事でした。
草崎村(現磐田市)周辺は土地が低く彦島にも劣らぬ洪水地帯でしたが、彼はこの地の水を仿僧川へ流す排水路(蝦島水道)を造り、悪夢であった毎年の水害から救っています。
また、天竜川に大堤防を造り、河川敷の新田開発や両岸の水防組合など、大きな業績を残しています。そのおかげかどうか、この地域では天保飢饉についての記録は少ないようです。
もうひとつ彼はこの地にとてつもない置き土産を残しました。
祐一郎は磐南平野の地形を調べ上げ、太田川・原野谷川の水量では絶対的に水が足りないことを確信します。そして測量調査の結果、平野最北部にある社山に隧道(トンネル)を掘れば、天竜川の水を引くことが可能であるという結論に達し、計画書をまとめあげたのです。
この時代に、山を越えて天竜川の水を引いてくるという破天荒な着想。まさしく天才の所業です。
彼は地元の人々を説得して回ったようですが、時期が早すぎたのか、実現は見送られました。
しかし、彼のこの案こそが、磐南平野に浮かんでは消え、消えては浮かび、およそ1世紀半の長きにわたって農民を喜怒哀楽で激しく揺さぶり続けてきた見果てぬ夢 ―――「社山疏水計画」でした。
祐一郎の置き土産は、磐南平野に深い衝撃を与えました。
幕末に数村の有志が計画案を幕府に上申。数年の後にようやく許可を得ますが、明治維新であえなく消滅。これが最初の不運でした。
続いて明治6年、当時の浜松県令などが地元有力者を集めて推進を図り、社山開削の案を県に出願します。しかし、同9年、折り悪く浜松県は廃止。同時にこの案も立ち消え。
明治11年、足立孫六(後の周智郡長)らが調査をすすめ、計画書を郡に提出。しかし、郡区が変更になり、これもまた流産。
この社山疏水は、天竜川の神田(現磐田市上野部)に石製の水門を築いて取水し、寺谷用水の既設水路で導水、途中で分水してから社山隧道で磐南平野へ引くという計画でした。したがって、寺谷用水との共同事業になるため、どうしても寺谷用水との協議が必要でした。
寺谷用水の開設は戦国時代。当時、遠江国は徳川家康の領地でした。家康は伊奈忠次に治水や新田開発を命じます。忠次は用水の計画を立て、地元の武将であった平野重定に工事を託します。
1588年、重定は天竜川沿いの寺谷村に巨大な圦樋を設置。浜部(現磐田市浜部)まで約12キロにおよぶ大用水を造ったのです。
しかし、名にし負う天下の暴れ川・天竜 ――701年から昭和56年までの1280年間、記録に残る災害は218回(約6年に1回の発生率)という凄まじさです。
洪水のたびに大量の土砂が堆積し、流路を変え、水量も著しく変動。このため、寺谷用水は取水口の補強や補修、導入路の掘削など過大な労苦を強いられ、取水口も何度か移っています。
したがって、寺谷用水にとっても、神田に頑強な水門を造り、安定した水量を確保することは悲願でもあったのです。
犬塚祐一郎の案より約50年後、この計画は実現性を帯びてきます。
明治16年、足立孫六は全区域(袋井宿他70村)をとりまとめ、県を経て内務省の許可を得ます。
ちなみに、この時代は日本三大疏水と言われる安積疏水、那須疏水、琵琶湖疏水と国家の威信をかけた大事業が目白押しでした。
最も難工事であったのは社山隧道(約1,300m)。予想以上に地質が軟弱であり、全部を石畳に変更するなど予算は膨れ上がります。
国や県から助成を受け、その後、工事は順調に進みましたが、同20年、奇妙な噂が流れます。「設計に誤りあり、水は流れて来ず」。
組合には苦情が殺到、脱退する地区も続出。工事は完全にストップします。
県が調査したところ、やはりミスを発見。隧道の出口が数m高すぎたとのこと。設計は内務省でしたが、考えられない失態です。
組合は議論百出、罵詈雑言が飛び交い、まったく収拾のつかない混乱を招きます。しかしいくら言い争ってもいかなる解決策も出ず、同21年8月、断腸の思いで工事の中止を決議。
農業土木史上最悪の失態とも言えるのではないでしょうか。
翌年、大日本帝国憲法が公布され世の中は沸きあがっていましたが、この平野は暗澹たる空気に包まれることになります。
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この頃、巷では、誰が作ったのかこんな唄が流行りました。