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icon1. 戦後の総合開発事業


敗戦は伊勢平野の状況を一変させた。誰もが貧しくなり国全体が食料不足に陥った。神宮もGHQの方針により一宗教法人と化し、戦時中は800万人近かった参拝客もその10分の1に落ち込んだ。

国にとっては経済復興、とりわけ食糧増産対策が第一の課題であり、各地で大規模な農業水利事業が展開されてゆく。北海道の開拓、東北の八郎潟干拓、関東の鬼怒川、東海の矢作川、近畿の紀の川、琵琶湖総合開発、四国の吉野川総合開発、九州の笠野原台地……。

三重県でも遅れてはならじと必死であったに相違ない。この頃ほど政治や行政が経済と直結した時代はなく、また故に、この頃ほど地方行政の手腕が問われた時代もなかろう。国の復興に向けて、各県同士の短距離レースのような全力疾走の時代が始まったのである。

三重県では宮川の開発に的を絞った。治水と電力開発に農業用水が加わり「宮川総合開発計画」が立案される(昭和26年)。約5,800haという伊勢平野のほとんどを潤す用水網の建設。むろん県政史上初の大規模なプロジェクトであった。


icon2. 宮川用水の概要


ここで簡単に宮川総合開発事業の概要を記しておく。

宮川村大杉(現大台町大杉)に宮川ダムを建設して水害軽減を図るとともに、かんがい用水として最大750万?を放流、併せて3ヶ所の水力発電所によって電力を生み出すというものである。宮川ダムは昭和26年に着工、同31年完成。

宮川用水事業は、粟生頭首工(大台町粟生)で取水し、国束山系に隧道を通して導水し、大台町、多気町、玉城町、明和町、伊勢市の農地約5,800haの農地を潤す。昭和32年に着工、粟生頭首工と導水路、幹線水路37.7kmが施工され、昭和41年に完成した。


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写真:トンネルの掘削
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写真:幹線水路のルート
探索

附帯事業として県営事業が着工され(同35年)、支線水路21路線、延長54.8kmと揚水機2カ所を建設(同53年度完成)。団体営事業は同36年より着工。用水路55路線、延長78.6km、畑地かんがい施設16地区(514ha)を建設して同57年(1982)に完成した。

昭和31年、県の計画は農林水産省で認可され、翌年、いよいよ国営宮川用水土地改良事業が始まることになる。幹線水路は複雑な地形のためほとんどがトンネル(延長7.2km)。途中、日本列島を縦断する中央構造線を貫通するため崩壊の危険を伴った難工事であった。

日本中が全力疾走を行なっていた時代である。当時の思い出を県の職員が語っている。帰宅は毎日12時過ぎ(残業手当なし)。3~4日徹夜して1~2日休んだ。新婚の職員も自宅に戻るのは1週間に多くて1度。……「所長は怖かった。せっかく書いた図面を何回となく破られた」「何べん半泣きになったことか、ぽろぽろ涙を流して書いた」「マージャンもしなかった食うことしか楽しみはなかった」

「毎夜、明日の測量の場所と図面を見て勉強した」「所長は面積を全部暗記していた。書き直しも早かった」(『宮川用水史』からの抜粋)。奇妙な記述もある。「頭からこんなところへ宮川の水が来るとは思わなかった」。なにせ誰もが経験したことのない大工事である。図面どおり水が来るのかどうか、来てみるまでは信じられなかったに違いない。

しかし、誰もが望んだと思えたこの壮大な事業は、工事が始まると事態は意外な方向へ展開してゆく。


icon3. 広がる反対運動


最初の異議は五桂池から取水している村々であった。この大きな溜め池は水が足りている地域が多く、宮川用水から外してほしいという要望である。続いて、同じように多気町の数集落が異議申立書を提出。斎宮池や惣田池の受益地、畑作地帯の旧三和町、湿田に悩む北浜地区、すでにポンプかんがいを行なっている岩出地区……。

そしてこの反対運動は燎原の火のごとく平野のほぼ全域へ広がってゆく。約180ある集落の中で反対者のいなかった村が1つか2つという有様。反対同盟も結成され、土地改良区からの脱退を申し出るなど事態はますます紛糾していった。

後述するが、反対運動の要因は農家の工事負担金が増えたことにある。他産業との経済格差が広がる中で、農家にとって負担金は重くのしかかっていた。また、利水条件がまだらであったことも大きな要因であろう。水に困っている地区もいない地区も一律に高い負担金を払わされるという理不尽さ。

いずれにせよ、こうした紛糾を必死で収めてきたのが宮川用水土地改良区や県の職員であった。約180もあるすべての地区で説明会を行ない、説得に説得を重ねた。中には12回も通った集落もあったという。むろん負担金軽減の嘆願も何度となく行なっている。

その激しい攻防の矢面に立っていた土地改良区事務局長・河合市郎は3晩も4晩も寝られないことがあったと回想している。彼は、反対する根拠は農民の歴史に培われた水への思いであることに気づき、図書館へ通ったり古老の話を聞いたりして地区ごとに水の歴史を勉強したという。「私は歴史的観点からそれぞれの集落に合致するように方針を切換え、根気よく集落の説得を続けた*」。

ともかくもこの宮川用水事業は、他の水利事業が次々と終了してゆく中で、難産に難産を重ねた。それは二千年近くこの地を支配してきた封建的な水秩序が一度に近代化される際の激しい陣痛にも似ていた。


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写真:第1回臨時総代会(昭和36年9月)




 *「それぞれの集落に合致」とは、負担率を5段階にわけるなど地区の事情に応じて設定したことであろう。
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