総合開発事業が着工されてから団体営事業が完了するまでに、実に30年の歳月を要している。宮川用水事業だけでも25年。この間の日本は敗戦の食糧難時代から世界の奇跡と言われた高度経済成長を果たし、世界の経済大国へと登りつめている。下の年表でその激しい時代の変化が確認できよう。
計画当初(S27)、農家が同意した用水事業の総事業費は約11億円であった。それが工事着手時(S32)には23.5億円になっていた。県営・団体営の事業費を加えると農家の反当り負担金は16,467円。この負担金をめぐって激しい反対運動が広がっていったのである。
ところが、国営が終了して償還が始まる頃(S43)には事業費は39.5億円にまで膨れ上がってゆく。県営・団体営を加えた反当り負担金は47,940円(現在の約26万円に相当)。この時期、まだ用水が使える田畑は45%に満たず、農家の反対運動は負担金の未払い運動にまで発展していった。
これに決定的な追い討ちをかけたのが同45年に始まる生産調整であった。当時の各新聞は「事業遅れ負担増す」「工事に危機」「無計画農政に怒り」などとの見出しで報道している。必死で農民の説得に当たってきた土地改良区の河合事務局長も「工事が終わらぬうちに米の減産では、あまりに酷だ。通水していない農家からどうして金が徴収できますか」と激昂している。
農家の怒りはもっともである。急激な経済成長の中で他産業との収入格差は広がってゆくばかり。ほとんどの若者が都会へ流出、一家の主人も出稼ぎに出て「三ちゃん農業」などと言われた時代である。用水が来て生産量が増えるのは末端水路が完成する10数年後のこと。
一方、生産調整もまたやむをえないことであった。各地の水利事業が次々と完了してゆき、米の生産量は増大する。しかし、その頃には食生活の変化もあって消費者の米消費量は減少して行ったのである。米余りは必然の成り行きであった。
この頃に水利事業をおこなった地域は多かれ少なかれ同じような目に会っている。高度経済成長期の不運とも言えよう。
フローとストックという経済概念がある。フローとは金やモノの流れ、ストックとはそれらの蓄積(資産)を指す。米の生産や価格、生産調整はフロー経済の領域であり、水路やダムはストックである。フロー経済は通常1年単位で対処するが、ストックの形成には数十年を要する。両者の政策や施策は全く異なる。とりわけストック(資産)の構築には国全体の長期的展望が不可欠となる。
上述した償還金不払い運動の矛盾は、水路というストック形成と生産調整というフロー経済の結果が混同されたところに生じた問題ではなかろうか。つまり、米の需給調整や所得格差といったフロー問題の解決を、その形成に数十年もかかる資産形成に求めたところに国や県の意図と農業者の思惑に大きな行き違いが出たとも解釈できる。
近代社会の成立後、人が平等である権利は法的には保障されたが、実際の土地条件は封建時代と変わらず、著しく不平等であった。水利事業とは、地形や気象による農地の不平等を解消することでもある。そうした意味では大きな社会改革の側面も備えているのである。決してフロー経済の範疇で論ずべき問題ではなかろう。
事実、この宮川用水事業が完成してから、この平野は三重県有数の穀倉地帯へと変貌した。かんがい面積は1.6倍に増え、反当りの収量も2倍近く増大した。ほ場整備率は97%(三重県全体では84%)とトップクラスであり、三重県を代表する農業先進地区となった。洪水の被害も激減し、水不足の苦労は昔話となって久しい。