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01
●金沢城石川門

今も石川門に百万石の偉容を忍ばせる金沢城。そして隣接する日本三大名園・兼六園。金沢を代表するこれらの史跡は、いずれも市街が見渡せる高台の上にある。

したがって。この巨大な城を囲っていた堀の水と、霞[かすみ]ヶ池、瓢[ひさご]池といった兼六園を彩[いろど]る豊かな水がどこから来ているのか、正確に知る人は多くはない。

現在も、一日に1,400トンもの水をこの兼六園や金沢市内に送り続けているのは、江戸初期に造られた延長十二キロメートルの用水。実に、今から約三七〇年前の手堀りの水路なのである。


この水路こそが、日本四大用水※のひとつ、辰巳用水である。


城の辰巳[たつみ](東南)の方角、犀[さい]川上流に水源を求め、約四キロメートルのトンネルで導水、開水路を経て兼六園の霞ヶ池に貯水する。さらに、驚くべきことに、そこから地下の導水管を使ってサイフォンの原理により、白鳥堀から内堀へと上げ、さらに高い位置にある城中二の丸まで揚水していた(図参照)。

1632(寛永九)年、前田家三代藩主利常が小松の町人板屋兵四郎[いたやへいしろう]に設計させ、造らせたという。

藩の表向きの目的は防火用水であったらしいが、城の防御強化、そして辰巳用水を活用した積極的な新田開発も意図されていた。明治初期の記録では、この用水を使用する水田の面積は100ヘクタールを超えている。

現在でも極めて高い測量技術が要求される導水トンネル。辰巳用水は軟弱地盤を避け屈曲しているが、その勾配は正確無比。必要な水量や流速を得るため水路構造まで、細やかな計算、工夫が随所に施されている。

何よりも、現在もなお現役の水路であることが、その技術の計[はか]りがたい水準の高さを物語っていよう。

また、水圧を利用して水を高い位置まで引き上げる伏越[ふせごし](逆サイフォン)の手法も、大掛かりなものとしては日本初であろう。


02
●サイフォンの原理により、兼六園から谷間の白鳥掘りを超え、二の丸まで水をあげている。
 出展:『石川県土地改良史』(石川県)

屋兵四郎は、この天才的偉業をわずか一年で成し遂げたと記録にある。

当時のサイフォンは木管であったが、後に石管に代えられ、今も兼六園にある日本最古の噴水を生み出している。

いずれにせよ、この辰巳用水で培[つちか]われた様々な農業土木技術が、各地の用水事業に与えた影響は絶大であったに相違ない。


小松の町人板屋兵四郎には謎も多い。藩による毒殺説もある。

実は加賀には、もう一人、兵四郎がいる。能登の塩田に携わった小代官・下村兵四郎。塩田の造成には、水平面を決める緻密な測量技術が要求される。兵四郎はその技術を買われて、1625年、輪島の尾山用水、春日用水を築いたとある。また、能登名所・白米[しろよね]千枚田の用水にも関わっている。さらに、辰巳用水の五年後には、富山県の常願寺川近くの用水工事も行っている。


時代も同じ。おそらく二人は同一人物であろう。あるいは、兵四郎一門ともいうべき高度な技術者集団がいたのかも知れない。


03
●金沢の用水(大野庄用水)

古都金沢。その町並みが情緒に溢れているのは、武家屋敷や茶屋街とともに、市内を縦横に流れている美しい水路群であろう。

この辰巳用水をはじめ、大野庄、鞍月[くらつき]、長坂といった主要水路。さらに泉、中村高畠[たかばたけ]、大豆田[まめだ]、樋俣[ひまた]、中島、小橋、三社[さんじゃ]、木曳[きびき]川、柳沢、河原市[かわらいち]等々、市内を網の目のように結ぶ大小様々な用水。これらはいずれも水田開発のために築かれた農業用水路であった。

そして、それらの水路の建設には、富永佐太郎、後藤太兵衛、中橋久佐衛門といった兵四郎に劣らぬ技術者、そして幾万という名もなき農民が命を注いできたのである。


当たり前のことながら、百万石の城下町は、百万石の農地が育てたことを忘れてはなるまい。




※日本四大用水とは、その難度や規模から、長野県の五郎兵衛新田用水(1630年)、金沢の辰巳用水(1632年)、江戸の玉川上水(1654年)、芦ノ湖から導水した箱根用水(1670年)とされる。明治維新以前の最大工事といわれた箱根用水のトンネルは約1.3km。辰巳用水のトンネル(約4km)がいかに長いかが分かる。


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