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新田開発の陥穽
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2代・信牧[のぶひら]の時代、広島城主福島正則の改易[かいえき]に絡んで、津軽藩に、川中島(信州)10万石への転封[てんぽう]の打診があったという。信牧は、これを辞退したらしい。
条件の良い地への国替[くにがえ]が栄転であった時代、津軽藩は何故この地にこだわったのか。

ひとつには、津軽開発の可能性があげられよう。この広大なる原野の新田開発が進めば、莫大な収穫が得られる。

信牧は、開墾後5〜10年の免税措置をとるなど、盛んに開発を奨励した。
3代・信義[のぶよし]も、溜め池や長瀬堰[ながせぜき]の築造など積極的な新田開発政策を行ない、津軽知行高元帳によれば8.7万石となっている。
そして、元禄時代には、名君と謳[うた]われた4代・信政[のぶまさ]の善政によって開発は飛躍的に拡大し、実高30万石をあげるにいたった
*1

津軽の大まかな歴史的記述としては、この程度で一応こと足りる。しかし、実高30万石をあげるにいたったということがどういうことを意味するのか、ここで少し考えてみたい。

仮に誰かが、前述した広須村あたりで水田開発を試みたとしよう。まず萱[かや]を刈り取り、畔[あぜ]を造り、地を平らに均[なら]す。問題はここからである。
水田には大量の水が要る。それをどこに求めるのか。川から引いてくるとすれば、取水口[しゅすいこう](堰[せき])を自分の田の標高より高い位置に築き、そこから水路を掘って水を流してくるより方法はない。

ところが、前述したようにこの平野の勾配は極めて緩[ゆる]い。取水口は、岩木川を十数キロメートルもさかのぼった地点、つまり、十数キロもの長大な水路を掘らなければならないことになる。さらに、田の水を速[すみ]やかに落とすための排水路も造らなければならない。

籠瀬良明氏の原図より
当然、この作業は村単位となる。何百という村が命を賭けて用水路、排水路を掘る。水路は他の村を横切り、時に交差し、錯綜[さくそう]する。当然、生死を賭けた諍[いさか]いが起こる。

上の写真は、並行して流れる十数本の水路。つい近年までの、この地特有の光景であった。
右図は、このような多状並列水路のあった個所を示した地図である。

水田開発とは、水路の開発に他ならないのである。
水が涸[か]れれば田も涸れる。川の取水口では、より多くの水を求めて村同士の激しい戦いとなる。

そして、新田開発が進めば進むほど、水をめぐる秩序は乱れ、用水量も不足する事態に陥[おちい]っていく。
つまり、新田開発の限界は、すなわち水の開発の限界でもあった。

岩木川の特殊な勾配は、山に降った雨をほとんど一瞬のうちに平野に溢[あふ]れさせるが、日照りが続けば、流れを見る間に痩[や]せ細める。
もともと、この地域の年間平均雨量は、1300ミリ前後。少雨地帯といってもいい。加えるに、流域面積に占める耕地の割合が日本一
*2

用水不足は、洪水とともに、おそらく元禄[げんろく]時代から現在まで続く、この水田平野の最大課題となったのである。

菊池利夫「新田開発・上巻」より
岩木川の上流では左図のように、わずか10キロメートルの間に、取水堰[しゅすいぜき]が12も並んでいた。

そして、さらに厄介なのは洪水である。せっかく造ったこの水路を伝って川から溢れた濁流[だくりゅう]が押し寄せ、作物ごと押し流してしまう。

下の写真は、昔の取水口の様子を良く示している。岩木川を蛇篭[じゃかご]や石で塞[せ]き止めただけの極めて素朴な堰である(蛇篭から漏[も]れた川の水が下流で同じように取水される)。

洪水時にどうなるかは、想像するまでもなかろう。用水路はそのまま洪水の導入路と化し、濁流は蛇篭[じゃかご]も俵止[たわらど]めもすべて破壊し、押し流してしまう。

命を賭けた水の配分は、同時に、招かざる災厄[さいやく]、洪水の配分でもあったのである。

水不足と洪水 ――― 実高30万石という輝かしい新田開発の裏では、この一見矛盾するような陥穽[かんせい](落とし穴)をも広げていったことになる。

つまり、弥生型社会の建設とは、単に水田を築いて米を得るといったことではなく、水の流れを自在にコントロールできるシステムとその秩序を、大地の上に築き上げることなのである。

ともあれ、横殴りの地吹雪と闘いながら、鍬[くわ]一本で大地と格闘し続けてきた農民達の労苦がいかほどのものであったか、後世、とても我々の想像の及ぶところではなかろう。

向駒越あたり。(大正初年の撮影)山上笙介編「弘前」(津軽書房)より転載

そして、この頃から、目を覆[おお]うばかりの惨劇がこの平野に展開されていったのである。



※1 寛文11年から天和元年(1671〜81)の検地では石高約二十八万石。
※2 流域面積に対する耕地面積の割合は、岩木川水系が28.1%と日本一。

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