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瀬田川の矛盾〜琵琶湖の水土〜
古代の都城
(『淀川百年史』(近畿地方建設局)より)
 この地域、縄文時代の遺跡はそれほど多くはないが、弥生時代のものとなると急に増える。
そして、4世紀から6世紀にかけてのいわゆる古墳時代になると、上述した5つの国では、有名無名を問わず実に万の位に達する膨大な数の古墳が築かれている。

 これはとりもなおさずこの地が、弥生時代に始まったとされる農耕生活に、いかに適していたかを如実に示しているのではなかろうか。

 「『日本書紀』は、新羅王の天日槍[あめのひぼこ]が、瀬戸内海から淀川をさかのぼり、宇治川を経て近江に至った話を載せている。この遡行[そこう]伝説は、水利と耕作を核にした農耕文化の、西から東への伝播を物語ったものにほかならない。」(林屋辰三郎他『宇治川』(光村推古書院)より)

“水利”という言葉に注目したい。
水田を作るとは、水利、つまり、川から水を引く技術であると言い換えられよう。農耕文化とは、水利という労働集約型のテクノロジーと表裏一体をなしているのである。

 稲作が富の蓄積を生み、その富をもって多くの人々を水利という労働(農業土木)に赴[おもむ]かせ、さらに米の収穫高を上げて、富を拡大する。古代の地方豪族はその循環で勢力を広めてきた。
そして、いくつかの豪族同士の闘い、淘汰を経て、統一政権である王朝、つまり、都が誕生する。当然のことながら、その地は周辺に広い平野を有していなければならない。
しかし、それにも増して重要だったのは、川の利用のしやすさ、水量の豊かさ、そして流量の変動(渇水や洪水)の少なさ、ひとことで言えば水利条件の良さではなかっただろうか。

 とりわけ、原始的な土木技術しか持たなかった古代においては、天然の良港と同様、天然の良田、あるいは天然の良川とも言うべき地形が、政権の確立に少なからず寄与したはずである。

瀬田唐橋
 言うまでもないであろう。この地を畿内たらしめた最大の要因は、琵琶湖の存在である。

 日本の社会がダムという近代技術を獲得するのは明治以降。
しかし、この地は、古代、いや有史はるか以前から、海とも見紛う日本一巨大なダムを、そして日本にはめずらしくなだらかな勾配の大河を、加えて、この地域は他の大河川に見られるような火山灰地帯が皆無であるため台地が少なく、いかようにも水田開発が可能な広漠とした平野・盆地をかかえていたのである。

 弥生文化の定着において、これ以上の適地が他にあろうか。
 琵琶湖──面積670km2、湖水面高86m、最大深度104m、貯水量276億t。この湖は、わずか5mmの水かさで大阪府860万人の約2日分の上水道がまかなえるという大貯水池であり、洪水時には同様に膨大な量の水が貯えられる大遊水池ということになる。

 都として成立するためには、交易の便も欠かせない。
湖は外海と違って波が少ない。当時、山の多い陸路を往くより、水上輸送の方がはるかに早く、労力も少なかった。

 日本海へは、琵琶湖北岸の塩津からわずか20km。大阪湾へも舟運が可能である。現代の交通感覚からすれば新幹線のような役割を湖や川自体がもっていたことになる。いずれにせよ、他の地の豪族からすれば、この地方は羨望の的だったに相違ない。

 ところで、この琵琶湖周辺の湖国・近江は、畿内五カ国からは外れる。
王朝の田畑が及ばなかったわけでもなかろうが、農耕の条件として決して恵まれた地ではなかった。
まず湖西地方は、比良山地や野坂山地の山塊が張り出して平地が少ない。
湖東は、一大平野をなしているものの雨が少なく、川も短く急峻である。また、後背地の山々は花崗岩でできているため土砂の流出が激しく、川は天井川を形成する。

 目前に、巨大な水瓶[みずがめ]を有しながら、この平野は水の利用が難しく、地下水、小さな溜め池、伏流水を集める集水渠[しゅうすいきょ]といった小規模かつ複雑な灌漑方式を組み合わせて渇水を凌[しの]いでいた。
世に名高い近江商人も、農村の貧しさが生み出したものと言っても過言ではなかろう。

 さらに厄介な問題をかかえていた。

 琵琶湖が大遊水池として畿内に絶大な役割を果たしたことは既に述べた。遊水池とは、洪水の際に雨水が直接川に流れ込まないよう、いったん水を遊ばせる池のことである。
右の地図をご覧いただきたい。これだけの河川の水が琵琶湖へ流れ込むわけである。しかも、出口は瀬田川のみ。

琵琶湖水系図
梅雨時の集中豪雨などに見舞われたらどういう事態になるか容易に想像はつく。
つまり、琵琶湖の水かさが増し、湖東の平野部が水没するわけである。
浸水害は、数千haから1万haにのぼることも稀ではなかったという。
もっと出口である瀬田川を広げられないものか。この問題は、おそらく古代からつい近年に至るまで、琵琶湖周辺に暮らす人々の歴史的悲願であった。
しかし、瀬田の出口は、大日山がせり出しており極端な狭窄[きょうさく]部となっている。江戸時代にも住民は何度も嘆願書を出しており、治水家として有名な川村瑞軒[ずいけん]なども工事にあたっているが、抜本的な解決には至っていない。
 この巨大な遊水池・琵琶湖の出口である瀬田川を掘り下げたらどうなるか。

瀬田川の矛盾とでも言うべきことに、琵琶湖住民と同様、いや、それ以上に困る地域があったのである。



※この琵琶湖はせきとめ湖ではなく、構造湖(地形の構造運動によってできた湖)であること、さらに世界に現存する湖で3番目に古い湖であること、 ゆえにこの狭い島国にありながら生物に他の地域では見られない固有種が存在することなど、自然の脅威とも言うべき極めて大きな特徴を持っている。

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