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約4.7万haという広大な佐賀平野(白石平野含む)は、そのほとんどが干拓によって創造[たがや]された大地であると言っても過言ではなかろう。


通常、沖積[ちゅうせき]平野といえば河川の堆積作用によってできた平野をさすが、この地は前述したように河川だけでなく、海の堆積作用も加わったことになる。地質学的には海成沖積平野といって、全国的に見ても極めて珍しい。

標高4m以下の地域の平均勾配は、1万分の1。実に、10km歩いて1m下がるだけという極端な平坦地である。しかも、その大半が満潮時には海面下となる。


干拓の歴史は古く、『和名抄[わみょうしょう]』によれば鎌倉末期、すでにその記述が見られる。しかし、それ以前にもこの地に住んだ先人は零細規模の干拓を繰り返してきたものと思える。

潮止めのための堤防を築けばその前面は浮泥の堆積がより促進される。すると後背地の水田は排水できなくなるので、さらに前に前にと堤防を築かざるを得なくなる。

古くから、この地では「一世代に一干拓」、あるいは「50年に一干拓」と言われてきた。


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    国営有明干拓起工当時の測量風景
    (提供:水土里ネットさが)

江戸時代には藩営の干拓も見られるが、この地方の干拓はそのほとんどが「村受け」と呼ばれる制度で、農民の手によって行われたものである。

この制度では、「舫頭[もやあがしら](干拓の発起人)」の下に20~30人、もしくは50~60人の「搦子[からみこ]」がついて堤防を造成し、その持分に応じて干拓地が配分されるというもので、完成後は長期間無税、しかも、肥沃な農地が手に入るというわけで、農民の意欲はかなり高かったらしい。

工法は素朴である。干拓エリアに松の丸太を1.5m間隔に打ち込む。これに粗朶[そだ]や竹を絡み付けた後、5~10年放置して干潟の成長を待つ。小潮時を見計らって土居(堤防)を築き上げる。父や長男達は土を投げ入れ、母と妹達が土居を叩いて固める。最後は潮止め。松の丸太を三段に築き、その中に土俵で盛土する。


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資料)「佐賀の干拓」佐賀県

したがって、規模は小さい。おおむね5ha以下の小さな干拓が鱗状に重なって形成されてきた。

規模は大きくなっていくものの、こうした個人、あるいは民営干拓は明治以降も続けられた。


右表は時代別に造成された干拓地の面積 *1をまとめたものであるが、佐賀の農民は、江戸から昭和まで毎年、実に20ha以上づつ平野を広げてきたことになる *2


「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」といわれる。彼らは国土の3分の1を干拓してきた民族として名高い(現在も40%が海面下である)。


佐賀平野も、その大半が佐賀の農民によって造られてきた、まさに、手造りの大地だったのである。


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昔の堤防(現在は道路)




*1 干拓面積は白石平野も含む。近年の増加は、県営や国営の干拓事業によるもの。

*2 ちなみに、佐賀県の面積は小さい。大阪、香川、東京、沖縄、神奈川に次いで六番目に狭い。

もし、この干陸面積を引くと、三位になってしまう。




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