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 もちろん、中条や県令・安場はこの程度で満足はしません。彼らは、江戸時代から諸国で行われていた商業資本による開拓を計画していました。中条は地元の商人の説得にかかりますが、「米沢キツネに騙されるな」と誰にも相手にされません。

新しい世を迎えたとはいえ、まだ町には刀を差した侍が歩いていた時代。経済は不安定この上なく、富商といえど一寸先は闇でした。

しかし、中条はひるみません。「富豪なりと言えど村のため国のために尽くすところなくんば、守銭奴の侮辱まぬがれるべからず」。彼の激しい説得に、商人たちも心を動かし始め、遂に阿部茂兵衛が同意します。阿部は他の24人を説きふせて資金を集め、明治7年、「開成社」なる結社が誕生しました。


  • 阿部茂兵衛
    阿部茂兵衛
  • 中条政恒と開成社幹部の会談の絵
    中条政恒と開成社幹部の会談の絵

開成館
開成館

 以来、大槻原野は、にわかに開墾ブームに沸きます。灌漑用の池を造り、幅8間の開拓道路(現在の国道49号)、移住者のための遥拝所(現、開成山大神宮)、干拓事務所や郡役所として使われた白亜の殿堂「開成館」(現存)の建設、わずか数年の間に100戸を超す集落が形成され、太古来の原野に人煙たなびく開拓村が形成されていきました。



そして、明治9年、後に宮本百合子描くことになる「桑野村」が誕生します。人口約700人、水田76ha、畑140ha。しかし、桑野村の貧しさは開村当時から変わりなく、水田からの収量はわずか2~3俵に過ぎなかったと記録にあります。

「中条君は移民と愛憐するや尋常にあらず」(『安積事業誌』)。中条も嫌というほど現実の厳しさを思い知らされます。彼は、ますます安積疏水への思いを強くします。彼の夢は、郡山の20km西方、三森峠の向こう側にある猪苗代湖からの導水と、安積原野1万町歩の開拓でした。


明治天皇
明治天皇

 しかし、幸運にも、この開成社の開墾が、明治9年、明治天皇による東北巡幸の先発隊として福島に来ていた内務卿・大久保利通の目にとまります。

大久保は新政府官僚の中でも.最も殖産興業に熱心でした。彼は、中条政恒から安積疏水と、それによる安積原野1万haの大規模開墾の話を聞き、目の色を変えたといいます。


そして、いよいよ世紀の大事業・安積疏水実現に向けて歴史が動き始めることになるのです。


大久保利通
大久保利通
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