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 明治12年10月に開成山大神宮で行われた起業式には、政府首脳の伊藤博文や松方正義も列席しています。東京からの往復に1週間ほどかかった時代、首脳陣の列席は新政府のこの事業にかけるただならぬ意気込みを感じさせます。

そして、翌日から工事が開始されました。最初は、安積疏水の取入口とは反対側、会津を通り、日本海に流れる日橋川の十六橋水門の建設から始まりました。戸の口にて湖から日橋川へ流れる水量を調整し、猪苗代湖の水位を保持するとともに、会津平野の戸ノ口堰・布藤堰用水の取水設備としてつくられました。


工事は朝の6時から夕方の6時まで(春夏)。休みは月に1回。国の直轄工事といっても、政府が作業員を直接雇ったわけではなく、それぞれの持ち場を入札によって民間に請け負わせていました。作業員は保証人をつけるなど厳しい約定書を交わして雇われ、就業規則も徹底されていました。

この工事が3年という短期間で、事故(犠牲者2人)も少なく終了したのは、当時の管理体制がいかに優れていたかを物語っています。

十六橋
十六橋

 また、特筆されるべきは、 「寸志夫」と呼ばれる農民ボランティアの参加です。彼らは10km以上も離れたあちこちの村から鍬や鋤を片手にやってきています。

半年近くが雪で埋まる戸の口の大工事がわずか1年で完成したのは、こうした住民の支援もあったからでしょう。

明治13年、十六橋の落成式には住民6、7万人が詰めかけ、戸の口周辺は立錐の余地もないほどの人出で沸きかえったといいます。


そして、次の工事が、いよいよ安積台地への導水トンネル。山脈を最短距離で掘削する沼上隧道工事は全長585mと比較的短いものでしたが、粘土質と硬い急斜面の岩盤、軟弱地盤による湧水との1年と5ヶ月に及ぶ闘いでした。空気の流通、湧水のくみ上げ、資材の搬出入のために勾配万風(斜坑)や井戸万風(堅坑)の作業用の坑などが造られました(万風とは鉱山用語で坑道の意味)。


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沼上瀑布
沼上瀑布

 この後、工事は安積原野を潤す水路の建設へ移ります。数十の隧道を掘り、樋を架し、延長52kmに及ぶ幹線水路、さらに78kmの分水路が完成。

工を起こして3ヵ年、述べ85万人の労力、 40万7000円という巨額の費用を投じた歴史的大事業でした。

明治15年10月、通水式には岩倉具視右大臣、松方正義大蔵卿、西郷従道農商務卿、徳大寺実則宮内卿などの政府高官が列席、盛大な式典が行われました。農民の歓喜は言うに及びません。


「湖水の昏々として滾滾(こんこん)として田畑に疏浸し、灌漑意の如くなるを実地に目撃し、争い請て水利を通し、歓声湧くが如し」と記録にあります。

彼らは「感喜無止の衷心」として祝賀会の費用4,000円の負担を願い出ています。却下されると,今度は2,500円を献金する旨の願書を提出しています(これも却下)。よほど喜びに耐えなかったのでしょう。

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