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 政府の士族授産事業が本格化するのは明治11年。安積原野には、工事が始まる前の11年から九州の久留米藩士族100戸余りが郡山に到着しています。工事が始まると、二本松藩21戸、棚倉藩26戸、岡山藩10戸、土佐藩106戸、会津藩33戸が入植、工事の完成後も松山や米沢からと、最終的には479戸の入植者を数えています。

安積疏水の完成によって、この地の水田は豊かに潤いました。完成の翌年、東北地方は大旱魃による被害に見舞われますが、この地方だけは例年にない豊作だったといいます。

しかし、それは前からあった水田の話。入植者がその恩恵にあずかれるのは早くて数年後、遅いところは10年を要しました。この間は開墾奨励金や持参した金でかろうじて生活するわけですが、入植後10年を過ぎても田畑からの収入に追いつけず、ほとんどの家族が赤字でした。当時の負債の記録を見ると、年が経つごとに負債は膨らんでいます。

原因は、やはり土地の生産力が低かったことに尽きます。新開地で土地が痩せていたこと、貧困ゆえ肥料が充分に与えられなかったこと、加えて経験不足から栽培技術も未熟でした。


各開墾社負債の調査
各開墾社負債の調査

明治18年の久留米のメモによれば、反当りの収量は、米約1俵、大豆3.5俵、ソバ3俵、馬鈴薯13俵等々と、付近の古い村に比べると,収穫は1/10程度しかなかったことになります。

負債はどんどん膨らみます。こうなると、もはや売るしかありません。

開墾が完了し、土地の名義が各個人に移ると、たちまち銀行や地元の商人や地主から借りた借金返済のために土地を失うものが続出しました。


こうして、結果的にこの安積疏水によって生み出された開墾地も大半が大地主の元へ集積していき、明治末期には、宮本百合子描くところの「貧しき人々の群れ」が住む村へと没落していったことになります。


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