安積疏水の夢
 猪苗代湖から山を越えて原野に水を引く安積疏水の案は、地元でも早くから考えられていました。一説には、明治2年、西本願寺の僧であった石丸法師が郡山の寺院に滞在した折、たまたまその年は奥羽飢饉といわれて、どこの村も用水の確保に血眼になっていたため、僧は猪苗代湖から水を引けないものかと茶飲み話に語ったといいます。
この話を聞いた川口半右衛門という商人が、実現の可能性を探るためか、二本松藩や会津藩に照会したりして奔走しています。
また同じ頃、地元の郷士小林久敬も湖水の開鑿を県に建言しています。さらに明治3年になると地元の有志たちが実際に測量を行い、猪苗代湖からの導水を訴えています。

安積疏水全図

これとは別に、現在の岩代町出身の儒学者・渡辺閑哉(儀右衛門)も藩政時代から安積疏水の提案をし、実地踏査までしています。田子沼を利用し、湖水を五百川に導くという彼の案は、後に明治政府によって実施された工事と全く同様でした(ちなみに疏水のルートは数案あり、どのコースが最適かを巡って技術者同士でも意見は対立していました)。
前述した二本松藩による大槻原の開墾が始まると、地元有志による安積疏水実現の運動はいっそう熱を帯びてきました。中条の元にも大勢の論客が押し寄せます。しかし、彼らの提案は、熱意はあっても実現性に乏しく、中には山師まがいの人物もいたりして、しだいに相手にされなくなっていきます。
中条は慎重でした。莫大な資金がいる上に、会津地方の利害と対立します。この事業は周到な準備と新政府の力なしでは到底不可能と考えていました。

五通合巻開墾書
 彼はその間に、単身で山野を歩き、現地調査を始めています。明治8年には三森峠、中の地方の調査、阿武隈川の水源地調査、各地区の水源調査や測量、最後には会津地方の調査を行い、どういう意図があったのか、只見川(会津平野へ流れ込む河川)の水源地である燧ケ岳まで登り、100kmも離れた尾瀬湿原一帯まで調査しています(この踏査で彼は重いリューマチを患い、生涯苦しんでいます)。

そうした徹底的な調査に基づく中条の提案は、殖産興業論者大久保にとっても魅力に富み、説得力にあふれたものでした。
明治9年、これを聞いた大久保利通は天皇の巡幸から東京へ戻ると、さっそく内務省の技術者を東北地方に派遣し、大規模開墾の候補地を探させます。青森の三本木原、栃木の那須野原なども候補に上がりましたが、最終的に安積原野が国営事業として最も適切であるとの報告がなされました。二本松藩や開成社による開墾の先行事例が有利に働いたことは言うまでもありません。
明治政府初の国営事業、資金も何十万円という途方もない巨費が必要でした。反対意見が続出する中で大久保は実現に向けて孤軍奮闘します。しかし悪いことに、明治10年、西郷隆盛による西南戦争が勃発します。政府の思いがけない出費がかさみますが、大久保は、だからこそ本格的な士族対策が必要なのだと持論を崩しません。
ところがさらに悪いことに、翌年、その大久保自身が兇刃にたおれて死去するという変事に見舞われたのです。大久保は暗殺される数分前まで福島県令と安積疏水の話をしていたというエピソードが残っています。
大久保の暗殺により、安積疏水の話は頓挫しかけますが、中条らは熱心に陳情を繰り返し、遂に明治12年(1879)、計画は縮小されたものの、安積疏水の事業そのものは実現の運びとなりました。
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