title
01

加賀といえば百万石。

人は、名都金沢の絢爛(けんらん)たる文化とともに、緑豊かな穀倉地帯を思い浮かべるだろう。


しかし奇妙なことに、飛鳥、奈良時代まで「加賀」という国はなかった。


平安初期まで、この地域は越前国に属している。


分割され、加賀国となったのは弘仁十四年(823年)。


全国で最も遅い立国だという。


今風にいえば、開発途上であったためではなかろうか。


事実、この加賀や能登の平野は狭く、川も小さい。※1


おまけに、北国の気候は厳しい。


いずれにせよ、穀倉地帯とは言いがたい。


また、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)した戦国時代。

加賀だけが「百姓の持ちたる国」(一向一揆)として一世紀近くも国を守っている。※2日本史上、稀有(けう)な例である。


海内無双(かいだいむそう)の雄藩加賀百万石※3は、いわばその「百姓の持ちたる国」の上に大胡坐(あぐら)をかいたともいえよう。

しかし、狭い平野と小さな川で、百万石という繚乱(りょうらん)たる大名文化を支え続けなければならなかった農民の辛苦はいかばかりであったろう。


白山の麓、けし粒ほどの谷間の村にさえ、岩盤に長いトンネルを穿(うが)ち、水路を引いている。


荒れ狂う扇状地の川と、鍬(くわ)一本で格闘し続けた壮絶な農民の姿。


広大な湖の埋立に数多くの人々が挑んでいる。


あるいは山の斜面に築かれた幾千枚という棚田。


実に、加賀は農民によって”創造(たがや)された国”という言い方も可能ではなかろうか。


もの言わぬ農民達のこうした何百年にわたる飽(あ)く事なき苦闘の歴史こそ、華やかに彩(いろど)られがちな加賀のイメージに、正しく描き加えねばならぬ醇乎(じゅんこ)たる陰影である。


加賀を創造(たがや)した人々。


先人のロマンに、しばし思いを馳(は)せてみようではないか。


そして、彼らが挑み続け、今もまた私たちの時代が担うべき歴史的課題を探ってみたい。




※1石川県の面積は全国平均の約半分。また、一級河川水系は二本しかなく、いずれも幹線流路延長は一級河川の平均値を大幅に下回る。もっとも当時の加賀藩の領地は富山県まで含まれてはいる。しかし、富山県の面積や耕地率も石川県と大差なく、両県合わせても大国とはいえない。


※21474年、一向一揆により本願寺門徒は加賀一国の実質的な支配権を獲得。この守護大名による支配を排除した史上類のない共和体制は、1575年、織田信長軍によって占領されるまで約百年間続いた。


※3大聖寺藩、富山藩を分藩しての加賀百万石は、例えば、他の大藩、島津藩七十万石、伊達藩六十万石に比して頭抜けていた。また、加賀藩は新田開発に力を入れ、江戸中期には実質百三十万石あったという。



back-page next-page