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01
●銭屋五兵衛の肖像画(提供:銭五遺品館)

わずか一代にして、天下一という巨万の富を築き、「海の百万石」と謳[うた]われた豪商銭屋[ぜにや]五兵衛。質流れのボロ船で海に乗り出したのは39歳の時という。

加賀の米を蝦夷[えぞ]へ売り、その帰りの航路で蝦夷の木材や海産物を運ぶ回漕[かいそう]業。危険は伴うものの儲[もう]けは莫大であった。

その儲けを新しい船に注ぎ込み、次々と取引きの港を増やしていく。松前、津軽、酒田、越前。そして、大阪の米相場。富は急速に膨[ふく]れ上がっていった。

当時、加賀藩の財政は窮乏している。天保の改革に際して、彼は巨額の御用金と引換えに藩の御手船裁許[おてふねさいきょ]となる。全国の港には、鵞眼銭印[ががんぜにじるし]と加賀梅鉢紋[うめばちもん]を印[しる]した千石船の帆が翩翻[へんぼん]とひるがえったという。

名実ともに「海の百万石」である。全国の支社34カ所、持船は200艘[そう]を数え、全資産は300万両という大富豪となった。

真相は定かではないが、ロシアやアメリカの船との交易もあったらしい。いわゆる抜荷[ぬけに](密貿易)である。

抜荷と言えば後ろめたいが、開明思想と言い換えれば、やや光彩を放つ。

天保の大飢饉[ききん]を目[ま]のあたりにして、彼は鎖国の矛盾、幕藩体制そのものに疑問を抱いたに相違ない。農民を救うため、粟[あわ]が崎一帯の砂丘に防風林を造ったり、飢饉にそなえ薩摩芋[さつまいも]の栽培を広めたりしている。

そして、野望を成し遂げ、老境に達した男が最後に描いた夢。それは、河北潟の埋立であった。世にいう「銭五開き」である。


河北潟は金沢の北隣、面積約2,300ヘクタールという海に面した県下一の大湖。

嘉永四年(1851)の計画書によれば、総予定石高4,600石、工事は20ヵ年。

しかし、この壮大な事業は二年目にして異様な結末を迎えることとなった。

まず沿岸漁村の猛反対を招き、工事の妨害が起こる。人夫の宝達者[ほうだつもの](鉱夫)も気が荒く、両者の抗争は激しさを増していった。

こうした中、潟に死魚が浮くという事態が発生。中毒死者も出たらしい。

「銭五、毒をまく」の噂が四方に広まり、事態は一転。加賀藩の政変がらみの疑獄[ぎごく]事件へと発展していく。

収賄[しゅうわい]の揉[も]み消しともいう。銭屋を援護[えんご]した家老の失脚。あるいは、藩も絡[から]んだ密貿易の発覚を恐れてともいう。真相は、今もって謎。多くの小説の題材ともなっている。

五兵衛は取り調べの最中、牢死。干拓の当時者であった息子、番頭も磔刑[はりつけ]。処刑者の総数は50人を超した。

そして、莫大な資産は没収、家名断絶。


02
●河北潟の干拓の全景

彼の富は一代で消え去った。しかし、その夢は100年を経て実現された。

河北潟の干拓は、金沢農地事務局に引き継がれ、昭和38年、国営事業として着手されることになる。

銭五の埋立工法では、経費がかさみ過ぎ、無理であった。国営事業は埋立ではなく、湖を17キロメートル近い堤防で締切り、潟の水を機械排水するという干拓工法。近代土木技術の輝かしい成果である。

潟の総面積の60パーセントを干拓、農地造成は約1,100ヘクタールに及んだ。

商の危[あや]うさを知り抜いた一代の豪商、銭屋五兵衛。彼の最後の仕事が農地造成だったことは歴史の綾[あや]か、それとも真の資産を求めてのことか。ここでは、それは問うまい。

およそ加賀人らいからぬスケールと評される彼もまた、加賀が生んだ“農”の人には違いなかろう。


今、銭五の海には、一面青々とした作物が実り、さわさわと豊かな波音を立てている。




※五兵衛は、北陸のレオナルド・ダ・ビンチともいうべき大野弁吉のパトロンであった。弁吉は、天文学、暦学、理化学、医学、航海術に精通し、からくり人形、カメラ、望遠鏡、ライターなどを製作している。五兵衛に農業の大切さを説き、河北潟の埋立を勧めたのも弁吉といわれている。また、五兵衛は、当代随一の学者・本多利明の開明思想にも触れているらしい。本多利明は、数学、暦学、天文学に通じた学者で、当時、半年ほど金沢にいた。藩に鎖国の愚を説き、軍艦の製造を教えたりしたという。

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