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圃場整備の創始者[農聖・高多久兵衛]
●岩盤を穿つ水路、奥にトンネルが見える
●高多久兵衛の写真

 圃場[ほじょう]整備(田畑の区画整理)は、現在もなお土地改良を代表する事業である。零細かつ幾筆にも分散した日本の農地の近代化に、圃場整備の果たした役割は大きい。
 とりわけ、ここ加賀では「田地割[でんちわり]」という藩独特の制度のため、農地は極端に細分化されていた。田地割とは、田畑に地力の差が生じると農民の間で収穫量の割合が違ってくるため、20年に一度くらい、部分的にお互いの田畑の交換を図るというものである。
 したがって、加賀には他藩のような小作争議も少なく、村民の団結力が養われたという。
しかし、この制度は、農地を星のごとくちりばめる結果となり、一人が小さな田を数百筆所有するといったことも稀[まれ]ではなかったらしい。
   
 700年続いた武士の世は版籍奉還[はんせきほうかん]で終わりを遂げる。年貢の廃止や土地売買の解禁。これまでの日本を支配していたあらゆる制度が一新、農村にも新しい風が吹いてきた。
 すでに加賀の土地は、潟を除けば、ほとんどが創造[たがや]されていた。
 いかに生産性を高めるか−「明治農法」の特徴は乾田馬耕[かんでんばこう]にある。馬による耕作は、今でいう機械化。広い区画ほど効率が良い。
 したがって、加賀のように分散した農地では、田区改正、つまり、圃場整備が必然の課題となった。
 加賀では、上安原村の田区[でんく]改正をもって圃場整備の嚆矢[はじまり]となす。暴挙と罵[ののし]られながら、費用、失敗の責を一人で背負い、誹謗[ひぼう]中傷の中で敢然[かんぜん]とやり遂げた人物がいる。
 上安原村の在、名を、高多久兵衛[たかだきゅうべえ]という。
   
 高多久兵衛の行った田区改正は、政府の奨励していた西欧の土地改正をモデルにしており、その後、「石川式」として全国に広まった。(※1)そして、石川式田区改正は、明治32年に法制化される耕地整理法の基礎となり、現代の圃場整備事業へと受け継がれているのである。
 日本農史に燦然[さんぜん]と輝く足跡を残した高多久兵衛。彼は士族の長男として生まれている。幼少より非常なる勉強家であり、一族の期待を一身に担ったが、彼の慧眼[けいがん]は、農地に注がれた。
 勤めのかたわら、農民の無学を憂[うれ]い、自宅で農談会を開催。その会で彼はすでに、曲がりくねった水路の改修や畦畔[けいはん]の整備も行っている。慈善事業にも志は篤[あつ]く、貧民救済に多額の金や米を救済し続けたらしい。
 明治20年。欧米の農業視察の報告を受けた当時の知事が区画整理に感銘、郡長[ぐんちょう]を通して久兵衛に打診があった。(※2)
   
 もとより念願の田区改正。彼は熱心に地主を説くが、費用がかさむ上に縄延[なわの]び(地積の過少申告)の益を失うことなどから猛反対にあう。しかし、彼は費用、工事の責任を自分一人で背負い、約60ヘクタールの田区整理を断行。明治21年3月のことである。
 罵倒[ばとう]、妨害、不平地主の流す心ないデマ。迷う農民を慰撫[いぶ]、説得[せっとく]、時に懇願[こんがん]しながら、田植え間近の急工事。久兵衛の辛苦は想像を絶するものがあったという。
 しかし、見事に区画され広々とした田に人々は息を飲んだ。田の増加は約3ヘクタール。生産高は16パーセントも跳ね上がった。
 話は瞬[またた]く間に全国に広がり、上安原村に視察のない日はなかったという。
 
 彼は、その後も県や国の重要業務に携わったが、一切の名誉職を辞退している。
 『農業教育』という古い雑誌に次のような記述がある。 「自己の名誉を蔽[おお]い、寧[むし]ろ世人に知らるるを恐れ、身を犠牲に供[きょう]して、一世を公共事業に終れる篤農家[とくのうか]は夫[そ]れ果たして何人ぞ。・・・曰く高多久兵衛とす」
 
 明治40年、加賀の農聖、逝[い]く。
 享年58歳であった。


 
高多久兵衛が行った上安原村の田区改正
●高多久兵衛が行った上安原村の田区改正。上の図面が改正前。下が、改正後。ゴチャゴチャした水田の区画が、整然と並び、一筆一筆が広く、馬による耕作が効率的になった。また、畦道の整理、用排水路の分離・統合により、田の全体の面積が3haも増えた。




※1 ※2
これらの記述については、誤りであることが、佐藤洋平元東大教授の調査で明らかになった。同教授によれば、日本の耕地整理は当時欧米を視察した樋田魯一らの「西欧土地整理」に端を発していることが通説となっているが、これは誤りであるという。
例えば、樋田魯一が視察を終えて帰国した後、大日本農会小集会にて視察の講演を行ったのが同年10月8日(講演録の発刊は同21年)。
ところが、この地はすでに以前から地割改正の習慣があり、石川郡模範農場においては「去19年以来田区を改良して(旧122筆→新42筆)大いに好結果を得し」(石川県『耕地整理の沿革』大正4年)とある。
高田久兵衛の事業に関しても、上野英三郎『耕地整理講義』では、「明治20年10月6日当時の石川県知事は、情を具し耕地の区画を改正せんとするものに対し、特に実地を検査し、工費の多寡に依り5ヶ年乃至7ヶ年間地価据置の認可を得んことを伺ひ出たり、大藏省は直ちに指令を与へてこれを許聴せり、是に於て石川県庁は大にこの事業を奨励し、石川郡安原村に於てその第一事業を見たり、該事業著手は実に明治21年3月にして、約3ヶ月を以て工を了へ、世に一個の好模範を示したり」とあり、『石川県耕地整理事蹟』でも、「石川郡上安原村は従来地割更正の習慣ありて、耕地の区画頗る錯雑を極む是に於て同村老農高多久兵衛なる者土地台帳の整理に際し本県令の主旨に拠り一村を挙げてこれが改正を遂行せんことを企て(中略)明治21年3月工事に着手し同年6月を以て其竣成を告ぐ之を本県耕地区画改正実行の嚆矢とす」とあり、樋田魯一らが講演を行う前に、石川県では田区改正が法的助成を伴って行われていたことが分かる。
こうした通説が定着した理由は、横井時敬「経済側の耕地整理」の記述ミスにあるらしい(本稿は石川県の土地改良に関する多数の本を参考にしているが、これらはほとんどが横井説を採っている)。
 したがって、本文は以下のように修正したい。


※1 高多久兵衛の行った田区改正は、その後、わが国独自の区画整理「石川式」として全国に広まった。そして、同時期に紹介された樋田魯一の「西欧土地整理」も大きな影響を与え、明治農法の基礎をなしたのである。
現代の圃場整備事業へと受け継がれている明治32年の「耕地整理法」は、ヴェルテンベルヒ、バイエルン、バーデン、プロイセン等の法律を参考として法制化され、石川県や静岡県で施行されていた田区改正を実例の資料として添えている。
※2 明治20年。石川県知事は地価据置きの特例をもって田区の改正を推奨、郡長を通して久兵衛に打診があったという。

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