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「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」とヨーロッパではよく言われる。彼らは治山・治水に長け、海に向かって国土を広げた(干拓)民族として名高い。

尾張もまた尾張人が造った、という言い方も可能であろう。尾張藩の新田石高[しんでんこくだか]は約30万石とされるが、その過半は5,000haにおよぶ干拓がもたらしたものである。

名古屋市の熱田区、港区、中川区、南区の一部、さらに弥富町、十四山村、飛島村、三重県の木曽岬町といった広大な地域は、ほとんど江戸時代の干拓によって誕生した土地。

断るまでもないが、これらの干拓は現代ではなく、江戸時代のことである。鍬やモッコ(土を運ぶ篭)だけによる、いわば“手造りの大地”。その工法は理解できても、費やした労苦たるや現代人の想像をはるかに超えるであろう。


実際、干拓という<動かざるための技術>は、極めて難物である。土地を干上がらせただけでは使い物にならない。水田であれば大量の真水が要る。その水をどこからか引いて来なければならない。新規の利水は無理なので、ほとんどが上流の田からの落水[おちみず]でまかなった。

さらに、水田は排水が不可欠である。もとより干拓地は海抜ゼロメートル以下。土地を高くすれば上流の田より水が引けず、低くすれば、今度は排水ができない。

この干拓地の中央を流れる日光川の勾配は、わずか2万分の1(上下流20km間の落差が1m)。このようにゆるい勾配の川は、全国に例を見ないという。計算上では、数百枚の水田がミリ単位の落差で並んでいたことになる。


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出典:「木曽川水系農業水利誌」

また、これだけ広域におよぶ海岸線の干拓新田となれば、上流の田にまで影響がおよぶ。上流の田も排水の行き場所を失い、次第に湿地帯と化していく。上下の対立は数100年間、その解決を求めて、時には流血を伴いながら模索してきた。

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「佐屋川用水」*1(1900年)は、こうした限界的状況の中で誕生した。用水と排水が複雑に絡み合い、余人では理解できない水の流れを呈している。手造りながらミリの単位を見極める技術が要求されたはずである。

佐屋川用水は後に近代化された「木曽川用水事業・濃尾第2地区」として、その複雑かつ高度な技術が受け継がれることとなった。


*1 佐屋川は、慶長15年(1610)、木曽川の大洪水の際に出現した河道といわれ、今の祖父江町あたりから分流、木曽川にほぼ平行に流れて、再び弥富町で合流する一大分派河川であり、当時は伊勢神宮の航路として賑わったという。明治の木曽川大改修で、この川は締め切られ、佐屋川用水となる。用水兼排水路として複雑な水秩序を形成してきた。旧佐屋川用水樋門の記念碑には次のような一文が刻まれている。「地域三千町歩(約3,000ha)の利水は木曽川本流の変遷に伴い、意の如くならず、苦心惨憺したけれども人力にては覚つかず、国の施策に頼らずに目的を達する事は出来得られ無かった」。


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