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さて、その後、この地の発展ぶりについてはあえて書くまでもなかろう。愛知県は、製造業王国としてここ数10年間日本でトップの座に君臨している。人工も増え続け、例えば愛知用水の給水人口は当初計画の19万人から116万人(平成7年)に膨れあがった。


また、以外に知られていないが、愛知は農業王国としての顔も持っている。例えば、農業粗生産額としてはキャベツ、ふき、いちじく、しそ、菊、鉢もの類、バラ等が日本一。市町村別の農業粗生産額においても、豊橋市の全国1位、渥美町2位、田原町17位をはじめとして、東三河地方の多くの市町村が毎年、上位に名を連ねている*1。これは、ひとえに豊川用水の賜物と言ってもいい。

豊川用水の計画そのものは、愛知用水よりも早い。大正10年(1921)、県会議員であった近藤寿市郎[じゅいちろう]*2が提唱したものの、渥美半島の先端まで水路を引くというあまりにも稀有壮大な計画であったため当時は一笑に付されたという。その後、計画は昭和の激動に翻弄されながらも三河農民の粘り強い熱意によって生き続け、遂に昭和24年(1949)、国営農業水利事業として着工の運びとなる。

しかし、ここでもやはり豊川下流農民*3、とりわけ400年以上の歴史を誇る松原用水、牟呂[むろ]用水(1894年完成)等の「断腸の思い」は愛知用水と共通している。

事業は当時の愛知用水公団に承継(昭和36年)され、約20年におよぶ数え切れない困難*4を乗り越えて、昭和43年(1958)に完成。投じた事業費も愛知用水を凌いでいる。しかし、この豊川用水の効果は凄まじく、水に恵まれなかった渥美半島から、上記したように、全国トップクラスの農業生産額を誇る市町村を幾つも輩出させている。


また、西三河の矢作川水系では、国営矢作川農業水利事業(羽布[はぶ]ダム)及び矢作川第二農業水利事業、あるいは明治用水の改築を主体とした国営矢作川総合農業水利事業などにより用水路が近代化された。“日本のデンマーク”と謳われた西三河が、農業先進地としてさらなる飛躍を遂げ、またトヨタ自動車をはじめとする自動車産業の本拠地を形成したことは言うまでもなかろう。


「大いなる田舎」などと、時に愛知は揶揄[やゆ]される。確かに、東京、大阪などの都市圏に比べると、その都市形態は大いに異なる。街や道路は広々として起伏が少なく、住宅地もゆったりとしている。製造業王国ではあっても工業地帯というイメージからは遠く、また、飛島村、十四山村という2つの農村が、名古屋市と接している。さらに、上記したように日本でもトップクラスの農業地帯でもある。


大いなる田舎-これを後進地ととるか、先進地と解釈するかはその人の価値観によるであろう。

しかし、少なくともこれまでの歴史を眺める限り、愛知は水利において、農業において、あるいは工業と農業の共存において、圧倒的な先進地であったといえるのではなかろうか。


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豊川総合用水・万場調整池

製造業王国と農業王国。愛知はふたつの顔を持つ。

私たちはここに、<動かざるための技術>の計り知れない余波を見る。そして、上下流、都市と農村の共存という難しい課題に挑戦し続けている愛知の先駆性を認めざるを得ないのである。


下の図を見ていただきたい。これが、現在の愛知における水利システム、水の大動脈網である。



*1 上記は、いずれも平成8年度の統計。また、生産農業所得においても、鉢物、菊、バラ等、常にトップクラスを維持している。


*2 近藤寿市郎は、明治3年、渥美半島の出身。愛知県会議員、代議士の後、地元に戻り、昭和20年まで豊橋市長を務めた。当時、近藤の三大ホラ話とされていたのが、豊川用水、豊橋港(いずれも実現)、豊浜運河であった。昭和30年、その功績を称えられ豊橋名誉市民となっている。


*3 豊川用水の取水口は、既存の用水の取りれ口より上流にせざるを得なかった。


*4 例えば、天竜川(静岡県佐久間ダム)からの分水も大きな課題であった。豊川用水は上流で静岡県から水を分けてもらい、再び下流で、湖西市(静岡県)の農業用水及び工業用水として供給している。これにより、湖西地域の農業、工業生産は飛躍的に伸びた。


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